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能登半島地震 復興の遅れと被災地訪問断念の顛末
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第268回

6月 07日 2024年 社会

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

oバンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住26年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

日本出張中の5月18~22日、仕事の関係で金沢を訪れた。石川県、特に金沢は私にとって日本では最も愛着を感じる街である。中学1年の終わりに父親が金沢に転勤になったため、私は東京に1人残った。夏休みや冬休みなど長期休暇になると、私は金沢に帰省した。60年近く前の話である。

当時は上野から金沢まで特急で8時間半、夜行の急行で13時間もかかった。現在は北陸新幹線で東京から金沢まで約2時間半、雲泥の差である。冬ともなると、1メートル以上の雪が積もり、毎日家の前の雪かきに追われた。雪の重みから枝を守るために準備された兼六園の雪吊(つ)りは地球温暖化のため今や無用の長物と化しているが、当時は風情を伴った美しい景色を作っていた。

60歳を過ぎて時間的にも精神的にも少し余裕のできた私は、妻の趣味であった陶磁器や漆器、さらにそれらを使った料理に興味が湧き、時間があればそれらを探索することにした。前田家の下で加賀百万石として栄華を極めた加賀藩は、幕府への忠誠を示すため素晴らしい献上品を開発してはせっせと徳川幕府に届けた。

このため石川県と富山県には「輪島塗」「九谷焼」「加賀友禅」「金細工」「錫(すず)細工」と多くの伝統工芸が息づくことになった。さらに加賀野菜や地元の魚介類を使った「加賀料理」や「金沢寿司(ずし)」も絶品である。石川県を頻繁に訪れるうちに輪島塗の職人、九谷焼の窯元、地元石川の日本酒を作る杜氏(とうじ)、さらに、すし屋や料理屋のシェフなど多くの友人、知人ができた。

こんな私が愛する石川県を今年1月1日に大きな地震が襲った。「能登半島地震」である。M(マグニチュード)7.6で最大震度7。死者は245人に上り、今なお3人が行方不明だ。地震からほぼ5か月がたち、東京では報道が少なく関心も薄れてしまったようである。

しかし能登半島の道路は相変わらず寸断されたままで、生活物資の調達も苦労するという。最近になり水道はほぼ使えるようになったが、下水道が断たれているためトイレが使用できない場所が数多く残っている。避難所は121か所に設置され、2100人以上が今も不自由な暮らしを強いられている。ほかに、旅館やホテルに避難している人も1700人近くおり、4000人以上が自宅に戻れないでいる。町の復旧はほとんど進まず、重機もボランティアの人たちも被災地ではほとんど見ないと聞いた。

「能登半島の悲惨な実情を自分自身の目で見たい」。幸いにも金沢出張に当たってお客様との訪問スケジュールの関係で空白日ができた。早速、私は能登訪問を計画して、レンタカーの手配をした。しかし結論から言うと、私は能登訪問を断念した。被災地の訪問をなぜ、諦めてしまったのか。いまだに忸怩(じくじ)たる思いが消えない。前置きが少し長くなったが、今回は東日本大震災との比較をしながら、能登半島地震について考えてみたい。

◆東日本大震災

2011年3月11日午後2時46分に東北地方を襲ったM9.0、最大震度7の東日本大震災。私はこの時のことを鮮明に記憶している。日本との時差がマイナス2時間(日本時間正午がタイ時間の午前10時)あるタイに暮らす私は当時、バンコクの日本食レストランで同僚とテレビを見ながら食事をしていた。突然テレビから地震速報が流れた。前代未聞の大きな揺れだというアナウンサーの声とともに地震の揺れを映した画面もしばらくして流された。その画面を見ただけで私は身震いしたのを覚えている。

長く生きていれば、より多くの経験がある。1994年に経験した米ロサンゼルスの大地震では幾つかの高速道路が崩落したが、数時間後には電話回線がいっぱいとなり2日間ほど電話回線の不通状態が続いた。この経験があったため、私は即座に日本に暮らす子供たちに電話をかけて安否確認を行った。また日本人行員にも同様に日本の家族との連絡を取るように指示した。

次に脳裏をよぎったのが、2004年12月26日に起きたタイ南部の観光地プーケットの津波被害である。M9.0の「スマトラ沖地震」により発生した津波がタイ有数の観光地であるプーケットを襲ったのである。この津波により5300人の死者と3000人の行方不明者が出た。この時の津波の映像が半月後にはビデオCDに焼き増しされ、バンコクの街中で100バーツ(当時のレートで約300円)で売られていた。早速私もビデオCDを購入して映像を見た。押し寄せる津波のうねりに人々はなす術もなく家屋とともに流されていく。言葉を失うほど悲惨な映像であった。

東日本大震災の一報を聞いた時、このプーケットの惨状が一瞬で蘇った。だから子供たちには、海や河川のそばから避難するように伝えた。残念ながら私の恐れていたことが日本で起こってしまった。波高10メートル以上の津波が岩手、宮城、福島の東北3県と関東地方の一部を襲い、地震による直接被害と合わせて死者は1万5900人、行方不明者は2500人に上った。この時、バンコック銀行ではチャシリ頭取の発案で、復興支援のための「義援金口座」を本店に開設した。日本人だけでなく多くのタイ人からも寄付をいただき、約30万バーツ(約100万円)をタイ赤十字経由で日本赤十字に送付した。

東日本大震災の翌年の2012年、提携銀行で仙台に本店がある七十七銀行を定例訪問した。この時、同行の役員に促されて仙台近郊の被災地を訪問した。海岸線から数キロにわたって何も残っていない光景に驚愕(きょうがく)した。内陸部には船が打ち上げられたままの姿で残っている。その役員の自宅も津波に流されたが、自宅にいた夫人は家の柱にしがみつき、九死に一生を得たと聞いた。同行の行員は例外なく親族や友人など誰かが被災したという。

こうした悲惨な目に遭いながらも、その惨状を外部の人にも理解してもらおうと努力をする。「壮絶な被害を風化させず後代に伝えていく」という人々の強い意志が感じられた。その後2年間、同行を訪問するたびに仙台郊外の被災地を訪問し、復興の現場を見て回った。私はこの時の経験から、被災した人たちは「被災地を多くの人に見てもらい、体験を共有してほしいと願っている」と思い込んでいた。

◆被災地を見てきた人の話を聞く

今回の能登訪問予定日の前日、私は「能登半島地震の被災地を見てきた」という人たちを探し出し、3組の人たちと話をする機会を得た。

最初に、私と同世代の人で、九谷焼の専門店で会った。私の知る九谷焼の窯元も地震で「幾つかの作品が被害に遭った」と聞いていた。窯元を直接訪問する時間がなかったため、金沢のなじみの店で九谷焼を数点購入し、「少しでも支援がしたい」と考えた。その店で会った人は、私と同世代の夫婦で、夫人は珠洲(すず)市の出身。結婚して現在は奈良に住んでいるが、被災した実家の家財道具の片付けなどのために珠洲に帰省したという。珠洲に住んでいた親類は全壊した自宅に住むことができず、現在は金沢に避難していると話した。「珠洲市は街がほぼ全壊し、とても人が住める状況でない」という。珠洲には古来より「珠洲焼」という陶器があるが、7軒あった窯元も全壊。「六古窯(ろっこよう)」(日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な六つの窯〈越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前〉)に匹敵する伝統を持つ「珠洲焼」の復活を心配していた。

次に会ったのは私と同い年で、勤務先の東京電力福島原発を昨年退職した人だった。現在はほぼ3か月ごとに日本各地を旅行しているとのことだったが、今回は能越道を通って富山県氷見市から石川県七尾市を回ってきたという。両市の被害はそれほどひどくはないが、耐震構造のない家屋は崩壊していたと話した。能登半島の奥に行こうとしたが、交通事情が悪く断念したという。詳しくは語らなかったが、その人は原発事業に関わっていたため、北陸電力志賀原発(現在休止中)の状況が気になっていたのであろう。志賀原発への道路は山筋が迫った海岸線を通らなければならず、一般の人はアクセス不可能なようである。

3人目に会ったのは、「現代の名工」とも呼ぶべき日本酒の杜氏の農口尚彦さんである。酒造りでは名人とうたわれる「能登四天王」の1人で、13代目市川團十郎襲名記念の際は、人間国宝である14代今泉今右衛門の陶器とともに、農口さんの山廃大吟醸が引き出物としてひいき筋に配られた。「酒造りの神様」とまで呼ばれる農口さんとは、数年前から食事をご一緒させていただく関係になった。91歳の高齢ながら現役の杜氏として、昨年10月から今年4月まで小松市にある酒蔵に寝泊まりして酒造りに励んでいた。自宅は地震の被害が深刻だった能登町にあるが幸い、耐震構造で大きな影響はなかったという。農口さんは地震発生後も酒造りを優先し、自宅にはあまり戻っていない。今回の金沢出張では農口さんの酒蔵も訪問したが、その翌日に農口さんは能登町の自宅に帰った。酒造りも一段落し、長期の里帰りだという。

能登半島地震の発生から5か月以上たった今も放置されたままのがれき 石川県能登町白丸地区 2024年5月19日撮影 株式会社農口尚彦研究所岩井隆さん提供

農口さんを自宅まで送迎した一番弟子の人から、能登町までの道路事情などを聞いた。金沢から能登町までは「能登里山海道」という高速道路があるが、七尾市徳田インターから終点の能登里山空港インターまでは下りの1車線通行で、能登町からの帰りは一般道を通る必要がある。このため金沢から能登市まで、行きは2時間半、帰りは4時間半かかったという。高速道路も隆起が激しくジェットコースター並みに車が揺れるという。帰りの一般道は山道が崩落し、崩れている崖伝いの道や迂(う)回路としての海岸沿いの下道を走らなければいけないようである。

◆予約したレンタカー、直前にキャンセル

運転が下手な私はおじけづいてしまった。レンタカーを傷つける可能性もある。また道中、トイレを見つけるのが難しいという。確実にトイレが使えるのは能登里山空港だけのようである。コンビニは開いているもののトイレの使用は禁止となっている。ドラッグストアの駐車場入り口にはトイレが設置されているケースが多いという。ドラッグストアを見つけたら必ず立ち寄るようにアドバイスを受けた。

話を聞けば聞くほど被災地の厳しい状況がわかってくる。果たして私の下手な運転で被災地まで行き着くことができるだろうか――。私の中で被災地訪問を逡巡(しゅんじゅん)する気持ちが芽生えてしまった。

金沢では、レストランや土産品店の人たちから能登半島地震のことを聞こうとした。この中の数人は私の被災地訪問に否定的な意見だった。「物見遊山(ものみゆさん)で被災地を訪問されたら地元の人が迷惑だ!」「道路事情が悪く支援物資の送付も難しいのに邪魔をするつもりか!」。全く想像していなかった辛らつな言葉が返ってきた。

不意打ちを食らった私は動揺した。運転に自信がなく被災地訪問を躊躇(ちゅうちょ)していた私の不安に、これらの言葉が拍車を掛けた。

能登訪問予定日の朝一番に私はレンタカーの予約をキャンセルした。しかしその後、私は何度も自分の中で反芻(はんすう)した。道が悪ければ、行ける所まで行って引き返せばよいではないか――。そう思い直して、30分後にレンタカーの再予約を試みた。しかし、後の祭り。レンタカーはすべて貸し出されていた。この顛末(てんまつ)に、悔いだけが残った。

◆金沢ではわからない被災地の実情

私は被災地を訪問して何をしたかったのだろうか。ジャーナリストなら被災地の現状を読者に届ける使命がある。芸能人なら被災した人たちと握手をし、歌を披露するなどして勇気づけることができるだろう。

私はボランティアとして家財道具の片付けなどの手助けをするわけでもない。そんな私でも東日本大震災の時、東北の人たちは私の被災地訪問を促し、歓迎してくれた。今回と何が違うのだろうか。

冷静に考えると、被災地域の大きさと被害の規模が大きく異なる。東日本大震災は津波を伴ったため東北3県の広い地域が被災したが、能登半島地震では石川県の一部である能登半島だけに被害が集中している。死者と行方不明者の合計で東日本大震災は1万8400人、能登半島地震は248人。単純計算で1/74の規模である。被害を受けた人やその親類・友人の母数が圧倒的に少ない。私の被災地訪問を叱責した人たちもひょっとすると能登地方に親族・友人がいないかもしれない。

被災地訪問が叶(かな)わなかったその日丸1日を使って、さらに能登半島地震のことを調べてみた。金沢の人で、能登半島の先まで何度も行ったことがある人はあまり多くなかった。金沢の人で、被災者と直接接点を持っている人も意外と少ないのかもしれない。石川県の馳浩(はせ・ひろし)知事は地震直後「被災地は交通事情も悪く支援活動は控えてほしい」とメッセージを出した。馳知事本人は地震発生後2週間たってようやく現地入りした。本来なら一番に現地入りして、政府に現地の窮状を訴え、支援を要請すべき人のはずである。しかし5月下旬の今ごろになって「県主導の復興支援の司令塔を作る」という。

今回の金沢出張では、金沢市内の有名レストランで馳知事とニアミスをした。「知事とあいさつをしたい」と石川県財界の人をはじめとして多くの人が待ち受けていた。地震から5か月もたってトイレさえ使えない人たちが多くいるというのに、私は割り切れない気持ちでいっぱいだった。

外国人観光客でにぎわう金沢の街。さらに「北陸応援割」で国内観光客も大挙して金沢に乗り込んでいる。金沢の街には能登半島地震の影響は感じられない。建設業界関連の人からは「政府から復興資金が配分され、ここ数年仕事に困らない」と聞いた。

政府の復興支援は相変わらず経済偏重である。能登半島地震の被災者には1人5万円の支援金が出ただけである。東日本大震災で私たちが活用した日本赤十字の復興支援金も、赤十字から義援団体に支援金が付け替えられた後はカネの行方がわからなくなる。支援金の支払い明細書が開示されることはない。東日本大震災の例で見ても、被災者の手元に支援金が届いたのは3年ほどたった後のことである。日本赤十字経由で義援金を寄付しても本当に届くかわからない。

私は今回、寄付金代わりに輪島塗の職人、あるいは九谷焼の窯元から直接作品を購入する手はずを取った。今、本当に助けなくてはいけない人たちは「地震で被災した人たち」のはずである。今回の能登半島地震の一番の悲劇は、被災者が一部の地域に限定され、被災者の声が広がっていないことではないだろうか。私は何もできなかった――。これを書きながらいま、私は無力感にさいなまれている。

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