小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住21年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
私は長い間、古代の遺跡に興味がなかった。歴史に興味があっても、わずかに唯物史観で語られる近代史のみ。西洋絵画は少しは知っているが、それとて高校時代のファッションとして見たものばかりだ。私の高校時代、フランス印象派の美術展が開催され、みなその流行に遅れまいとセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホなどを見て、「にわか仕立ての美術愛好家」になったものである。
30代でヨーロッパに長期出張した際も、週末を利用してルーブル美術館、プラド美術館、ゴッホ美術館などを駆け足で見て回った。ところが、展示内容も知らずにロンドン美術館に飛び込んだ時は古代遺跡中心の展示にがっかりして帰ってきたことを覚えている。ここ数年「夏休み」と称してヨーロッパ旅行をしているが、ローマ観光の定番であるコロシアム、フォロロマーノなどの歴史的遺産は正直あまり面白いと思わない。石柱や崩れかけの建物が残っているだけではないか。想像力に欠ける私には、ローマの遺跡からは当時の人々の生活ぶりが全く想像できないのである。
◆他に類を見ない歴史的価値
前回(第156回)も書いたが、私はこの夏、イタリア・ナポリを訪れた。今回は、その際に足を延ばして半日観光したポンペイについて綴(つづ)ろうと思う。
ポンペイに行く価値は果たしてあるのだろうか――。今年のヨーロッパ旅行を計画する際、最後まで行くことを悩んだ観光地がポンペイであった。ナポリからポンペイまで約20キロ。私たちはこの夏、ナポリに4日間滞在したが、「ナポリを見てから死ね」と称されるナポリの近郊は景勝地や見るべきものが満載だった。
ポンペイ以外にも見たい場所はたくさんある。しかし、ナポリに行くのは今回が最後だろう。もし今回、ポンペイ観光をしなければポンペイを見ることは一生ないだろう。世界遺産に登録され、世界中から観光客が押し寄せるポンペイ遺跡。ポンペイ遺跡を見損ねたら一生悔やむかもしれない。そんな意識が働き、妥協案として短めの半日観光の日程を組んだのだった。
ポンペイ観光は、タイからイタリアに飛んだ翌日の8月3日。常夏のバンコクから赴いた私たちでも耐えがたい酷暑であった。ナポリからポンペイに向かうバスの中で日本人ガイドは、ポンペイ観光では体力を温存するように強く薦めた。日本からの観光客で何人もが体調不良で倒れたという。
ガイドは続いて、ポンペイの歴史を説明し始めた。紀元前8世紀ごろ、先住民であったオスク人により建設されたポンペイは、その後幾つかの民族の侵略を受け、紀元前3世紀ごろ、共和制ローマの支配下に入る。ローマはポンペイなどのカンパニア地方に自治権を認め、ポンペイでは旧来の自治制度と言語の使用が続く。
ところが、ローマと同盟関係を結んでいたイタリアの各都市国家が「ローマ市民権」を求めて紀元前90年に「同盟市戦争」を起こすと、ポンペイも反ローマ側に参加。翌紀元前89年にはポンペイの町はローマ軍に制圧され、ローマの植民都市となった。これ以降、ローマは一転してポンペイを厳しく支配する。港を有し、かつ、ローマに続くアッピア街道に近いポンペイは流通の主要拠点となり、商業都市として繁栄する。ローマの貴族たちも風光明媚(めいび)なこの土地にこぞって別荘を建て、さらにワインの産地として、街はいよいよ繁栄する。
紀元62年、激しい地震がポンペイを突然襲った。この地震によってポンペイは壊滅的な打撃を受けたが、ポンペイを支配していたローマ人はこの都市の重要性に鑑み、復興に着手する。この時、62年の大地震が次なる悲劇の単なる予兆であったことをポンペイの人々は知らなかった。紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が突然噴火を始めた。この噴火した日については諸説あり、まだ確定していない。
この大噴火は三日三晩続き、街は火山灰と火砕流によってすっぽりと埋もれてしまった。当時2万人いたポンペイ市民のうち約2千人が犠牲になったが、噴火の翌日に発生した火砕流は時速100キロで街に迫り、多くの人が逃げ遅れたのである。長い間、ポンペイの街は完全に消滅したと考えられていたが、1738年にポンペイ郊外、1748年にポンペイの街の一部が発見された。それ以降、ポンペイの街の発掘は現在も続けられている。なにせ一瞬の大惨事であったがために、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子や街路、建物をそのまま現在に残したのである。歴史的な価値は他に類を見ないものがある。
◆マリーナ門からフォーロ広場へ
バスはまもなくポンペイの街の入り口に着いた。「海岸の入り口」を意味するマリーナ門である。2千年にわたる地形の変化で遺跡のあるポンペイの街と地中海の海岸線は遠く離れてしまったが、その昔は海岸線の迫った街である。
このマリーナ門には船着き場がある。門から街に続く道は岩を切り抜いて造られ、馬車道と歩道に分かれている。いずれも石畳で馬車の車輪に耐えられる構造となっている。当たり前の話だが、当時はまだゴムでできたタイヤなどなく、木製の車輪が直接この石畳の道路を削っていた。
マリーナ門の右手にはヴィーナス神殿がある。ここには火山灰によって生きたまま閉じ込められた2千年前のポンペイ人のミイラが当時の姿のままで残っている。さらにこの場所から大量の貨幣も見つかっている。既に2千年前から人々は貨幣を使用していたのである。
さらに進むと、視界の開けた場所に出るフォーロ広場がある。ポンペイの街は北から南にかけての急斜面に広がるはるか昔にできた溶岩の上に横たわっている。古代ローマ時代の他の街と同様に、南北に走る道が碁盤の目状態に造られた規則的な構造を持つ。
また、この街には外敵を防ぐための市壁が設けられ、市壁には六つの門がある。私たちはこのうちの一つであるマリーナ門から入場した。このマリーナ門の一帯はポンペイ最古の居住中心地と考えられており、オスク人の手によって建設された。私たちが通ってきたマリーナ通りは曲がりくねっていて、ポンペイ市街の他の地域の碁盤の目状の道路構成とは異なっていた。視界の開けた広大なフォーロ広場はローマ時代、宗教・経済・市民活動の中心地であった。
フォーロ広場の周辺にはポンペイの守護神を最初にまつったアポロ神殿がある。また、フォーロ広場の北側にはローマ建築様式とは異なるジュピター神殿など幾つかの神殿がある。市民の集会所や裁判所の役割を果たしたバジリカ、食料品市場であったマケルムなどの施設も残っている。
ほとんどの遺跡は門柱や石壁が残っているだけで、その建物が何かすぐにはわからない。しかし、ガイドの説明を受けながら注意深くそれらの遺跡を観察すると、わかってくることがある。
アポロ神殿には祭壇とともに日時計がある。当時から人々は既に時間を意識して生きてきたのである。また、エトルリア語の碑文も残されており、人々が文字を使っていたことがわかる。神殿の門には美しい彫刻が施されている。大理石や貝殻に浮き彫りする南イタリアの芸術品「カメオ」の技術をここで見た。
市民の集会所であった広大なバジリカは屋根で覆われていたようであり、当時の建築技術水準の高さを知ることができる。また食料品を取り扱う市場には、幾つかの魚の絵が看板として飾られている。壁には装飾画が描かれているが、それには遠近法の技法が使われている。レオナルド・ダビンチまで待たなくても、この時代に既に遠近法が使われていたのである。このほか、フォーロ市場にはポンペイ市民が日常使うための広大な地下貯水池もある。
◆街並みに見る現代さながらの快適さ
フォーロ広場から少し足を延ばすと、スタビアーネ浴場がある。ローマの人々にとって浴場はレクリエーション、憩いの場であるとともに、社交の場でもあったのだろう。私たちは復元後の浴場の建物を見学したが、驚くほど立派なものであった。脱衣所から始まる入浴施設は幾つもの部屋に分けられ、何種類もの風呂が用意されている。それぞれの部屋には違ったデザインの壁画が描かれている。
浴室内にはお湯を使ったセントラル・ヒーティング・システムが設置されており、人々は浴場で快適に過ごすことができる。もちろん上下水道も完備されている。なんとも近代的な設備が2千年前から存在していたのである。屋外にはプールや運動場がある。ポンペイの人々はたぶん、これらの施設で運動して汗をかいた後、風呂を浴びたのだろう。現代人の我々がジムやスポーツクラブでやっているのと同じことである。
スタビアーネ浴場のそばには、世界最古の職業とも言われる娼館(しょうかん)が集まった場所がある。歩道には男性のシンボルマークを使って娼館街を指し示す交通標識がある。そういえばポンペイの街を碁盤の目状態で走る道は、歩道と馬車道に分かれている。馬車道は歩道より一段低くできているが、これは馬の排泄(はいせつ)物を人が避けるための知恵である。
この馬車道は街の外側に向かって緩やかに傾斜している。馬車道に水を流すことにより、排泄物などを街の外に流し出している。また、馬車道には一定間隔で飛び石が設けられているが、これは人の横断歩道の役目を果たす。馬の糞尿(ふんにょう)の心配をしなくてもいい。道は大理石でできているが、これは月に反射して明るく夜道でも歩きやすくする工夫である。道一つとっても当時の人たちの知恵が詰まっている。
私たちはさらに住居を併設した商店街を歩いた。当時から医者、レストラン、パン屋、洗濯屋など現代に通じる職業があった。パン屋には、馬にひかせた石臼(いしうす)跡やかまど跡なども見てとれる。また、住居も立派である。家の中心には噴水や池がある。屋内にある池は屋根から雨水を集める貯水池の役割があった。また、立派な壁画やタイルが残されている家も散見された。
◆私たちは本当に豊かになったのか
私は想像力を欠くため、古代遺跡の面白さが十分わからなかったが、さすがにこれだけの数の遺跡を見せられると、少しは想像力も湧いてくる。
それにしても、2千年前のポンペイの人たちの生活はなんと豊かなことであろう。既に十分に文化的な生活を楽しんでいる。高度な建築技術に基づいた立派な家で、すばらしい絵画に囲まれた生活。食べ物はワイン、チーズ、パンのほか、肉・魚と多くの食材がマーケットで取引されている。娯楽は闘技場で行われる剣闘や浴場、さらに娼館まである。人類は果たして、このポンペイの時代から2千年の間に何を進歩してきたというのであろうか。
ヨーロッパ・ルネサンス期における火薬、羅針盤、活版印刷の3大発明。第一次産業革命での製鉄技術、蒸気機関の発明。19世紀後半から始まる電気工学の発展により無線機、蓄音機、電球などが発明され、その後電気製品は我々が生活する上で必要不可欠なものとなる。
同じく19世紀後半から米国では石油の採掘が本格化し、自動車の発展とともにプラスチック、ナイロンなどの各種化学製品が開発されていく。20世紀後半からはコンピューターとインターネットを活用した第3次産業革命が起こった。こうした発明によって確かに私たちの生活は便利になった。こうした技術の発展によって他の国や地域との貿易を含めた交流が盛んになった。石灰肥料や遺伝子技術の開発などを背景に、食料の大量供給による人口爆発も起こった。
しかし、私たち一人ひとりの生活に立ち返り2千年前のポンペイ人の生活と比較してみて、私たちは本当に豊かになったと言えるのだろうか。ポンペイの遺跡を見て回り、ポンペイの人々の生活を想像すると、「その後の私たちの2千年の進歩とはいったいなんだったのだろうか」と深く考えてしまうのである。
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