小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住21年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
日本の新型コロナウイルス感染対策を海外から見ていると、「日本は本当に先進国なのだろうか?」と首をかしげてしまう。幸いにもコロナ感染の第1波は何とかしのぎ切れたものの、日本はここにきてまた、感染者が増加傾向にある。ひょっとすると今回の増加は、4月に経験した第1波を大きく上回る規模になるかもしれない。にもかかわらず、日本では4月以降、多くの専門家らから指摘された問題点はほとんど解決されていない。次なる感染拡大に備えて、こうした問題を再度整理しておきたい。
◆責任者は不明のまま
まず問題となるのは「誰がこのコロナ対策の責任者となるのか」である。感染症対策であれば厚生労働省(以下厚労省)が前面に立つのが常識的な話である。ところがこれまで、厚労省の担当者が報道の前面に立つことはほとんどなかった。マスコミ報道でも、厚労省としての見解を述べるときは「厚労省担当者」の意見とされている。こんなバカな話はない。国の政策を決めるのに、感染症対策の責任を負う厚労省が逃げ隠れしているのでは、まともな感染症対策など取りようがない。
「厚労省はかつて、担当者が水俣病などの公害訴訟や薬害訴訟の直接被告人となった過去があり、責任から逃れようとする体質が省内に染みついている」と聞いたことがある。しかしこれが本当なら、日本は誰も政策責任を取らなくなる。この「誰も責任を取らない体制」が日本全体に蔓延(まんえん)している。
今回も、厚労省は責任逃れのために「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議(以下、専門家会議)」を設置した。この専門家会議はコロナ対策の助言を行っていくという立て付けなのだが、助言を踏まえて国の政策を決定する責任者は不明のままなのである。
安倍晋三首相は「すべての責任は私にある」などと繰り返しているが、安倍首相がこれまで具体的に責任を取ったことがあるだろうか。国会答弁で「申し訳ない」などの心のこもらない言葉を連発することはあっても、それでおしまいである。第一、今回の件で言えば、感染症の素人である安倍首相に、責任の取れる資質も資格もない。もし責任の取れる資質があるならば、コロナ対策についていままで自分の言葉で国民に語りかけていたはずである。「高度な緊張感を持って対処する」などといかにも官僚がつくった作文を読み上げるだけで、具体的に何をすべきなのか安倍首相からは伝わってこない。
こうした首相の会見の場には、官邸詰めや首相番のほか、あらかじめ申請して許可された記者しか入ることができず、司会役の内閣広報官が答えに窮するような難しい質問をしそうな記者は、無視したり、「予定時間を経過した」との理由で会見を打ち切ったりして、質問させないようにしていると聞く。これでは国民が本当に知りたいことはわからない。政府が今やるべきことは、今回のコロナ感染症対策の官僚機構の責任者を明確に指名し、政府として全面的にバックアップすることである。コロナ感染症対策の専門家でもない西村康稔経済再生大臣が前面に出て説明しても、国民にはなんの説得力も持たない。
◆無責任体制は民間企業にも
ここで少し脱線するかもしれないが、現在よく見受けられる日本政府の「無責任な政策決定体制」に言及しておきたい。政府の政策決定にあたっては現在、多くの事案で「専門家会議」や「諮問機関」などが組織され、政策の決定プロセスがあいまい化されている。これは私に言わせれば、政治家・官僚の責任逃れ策である。政治家・官僚の覚えめでたい学者や専門家らが集められ、政府の都合の良い施策を提言させて施策に反映させる。政治家や官僚は、政策がたとえ失敗しても「専門家の意見を踏まえている」と言い逃れができる。
一方、名誉欲や功名心が強い学者や専門家たちの多くは、こうした会議に喜んで参加する。こうして、両者のウィンウィン関係が成立する。しかしこうしたやり方で、真に国や国民のための施策が打てるとは思えない。なぜならば、誰も責任を取らないのだから。
こうした問題は民間企業でも散見される。大手企業では案件決裁にあたって多くの人たちがハンコを押す。決裁権限者は決まっているとしても、多くの人が決裁に参加することによって決裁責任を希薄化する。無責任システムの代表である。また不祥事が発生するたびに設置される「第三者委員会」もこうした事例の一つである。「みそぎ」が済めば経営者が居残る企業は枚挙にいとまがない。責任回避の無責任体制が日本に蔓延している。
◆「PCR検査1日2万件実施」は空手形
しかし、人命にかかわるコロナ対策では、先述のような無責任体制では事態を収拾できなってしまった。専門家会議は本来、政策決定機関ではない。しかし政府は専門家会議の意見を踏まえた「明確なコロナ対策」を策定し、それを国民に提示することができなかった。このため専門家会議のメンバーはコロナ対策の前面に出ざるを得なかった。専門家会議は当初の意図とは別に、コロナ対策の司令塔の役割を果たす。特に専門家会議自身が主導した「クラスター対策」が実質破綻(はたん)し、感染拡大が確実視される状況になると、専門家会議は危機感を前面に押し出して国民へのメッセージ発信に注力した。
こうしたやり方については、専門家会議内部で意見の相違や確執もあったと聞く。しかし「国民の命を守る」という強い使命感を持った学者たちが中心になって、感染症対策の司令塔の役割を果たした。ところが経済重視の政治家や官僚は、こうしたやり方が気に食わなかったようである。6月24日、この専門家会議は、そのメンバーたちにも不意打ちの形で、西村大臣から廃止が発表された。
専門家会議のこれまでの提言や施策については、批判も数多くある。しかし新型コロナウイルスの全貌(ぜんぼう)がいまだ解明されない中で提言がなされてきたことを考えると、過ちがあっても致し方ないであろう。現在ある批判の多くが「あと出しジャンケン」のようなものである、と私には感じられる。
感染の有無を調べるPCR検査についても、専門家会議が読み違えた事項の一つであろう。しかしクラスター対策の実質破綻を経て、専門家会議も方針転換した。PCR検査の実施の必要性を強く推奨し始めた。しかし、その後もPCR検査の実施件数はいっこうに増加しなかった。ここでも安倍首相は胸を張って「早急にPCR検査の検査可能件数を1日当たり2万件にします」と手形を切ったが、これが実際に達成できているのか検証できていない。なぜならいまだに、1日当たり2万件のPCR検査は実施されていないからである。
いつか必ず来るであろうコロナの第2波への対策に万全を期するならば、予防的検査で1日当たり2万件のPCR検査を試行すべきである。また、コロナ第2波が米国並みの感染力を持つようになったとしたならば、1日当たり2万件の検査で間に合うのか、早急にシミュレーションをする必要がある。
◆一刻の猶予も許されない状況が迫っている
4月以降、PCR検査が遅々として進まなかったが、何人かの専門家が問題点を指摘していた。私が知る限り以下の四つが挙げられる。
① 厚労省傘下の国立感染研究所がPCR検査データの独占化を謀(はか)り、市中でのPCR検査を阻止した
② 国立感染研究所は感染症の治療薬・検査キットの開発ならびに承認の両方の権限を持つ。このため自身の利益にならない海外の検査キットの使用を承認しなかった
③ 当初設定された「5度以上、4日間の発熱」というPCR検査受検のための待機ルールが、医療崩壊を恐れる厚労省・医師会などの抵抗で長い間、実質的に解除されなかった
④ 4月上旬からは保健所以外の一般の検査場所の増加を図ったが、一部の医師を除き医師会はPCR検査の受託に消極的だった。また大学病院などには検査キットがあったものの、厚労省・文科省の省庁間の軋轢(あつれき)などから協力体制が築けなかった
残念ながら、私はこれらの事実関係を知りうる立場にはない。しかしいまだに1日当たり2万件のPCR検査が達成されていないことを考えると、複数の問題点の存在が疑われる。
現在、東京都のPCR検査可能件数は3千件程度であると聞く。もしこれが本当ならば、東京都の感染者数が200人を超えるときには、検査能力不足が現実化する。政府・厚労省はPCR検査の能力不足に陥った原因を分析し、早急に解決策を講じなければならない。一刻の猶予も許されない状況がすぐそこに迫ってきている。
◆政治家の多くは「利権と選挙」ばかりが関心事
日本政府のコロナ対策の重大な欠陥は、「責任者・責任部署の不明確さ」とともに「方針の不明確さ」にも表れてくる。「未曽有・未経験の危機だからこそ、誰も明確な方針が打ち出せない」といったコメントも耳にする。それも一面の真理であろう。しかし政治家・リーダーには、こうした未曽有の危機に対処できるだけの力量が要求される。真に国家や国民のことを考えるならば、政治家・リーダーは以下の観点に立って行動するべきであると私は考えている。
① 常に最悪の状態を想定しそれを避ける方法を優先する
② 科学的データを駆使し、いくつかのシナリオを作る。状況は常に変化しており、情報の更新とシナリオの再構築を定期的に行う
③ 上記のシナリオに基づき最善の方針を策定する。この方針は常に国民に開示し、国民の理解獲得に努力する
私は日常生活や執筆活動において常にこうした姿勢を貫いてきたつもりである。自分のアイデンティティーの源である日本ならびに日本人について、辛口のコメントを多くしてきているのもこうした理由からである。「ニュース屋台村」でも、日本の最悪の未来を避けるため、たびたび厳しい意見を述べた。私は予想屋でも占い師でもない。私の悲観的な見方が実現しないことを望んでいる。ところが、コロナ禍に対する日本政府の対応は、私が信じる基本姿勢と全くかけ離れている。
私には、日本の多くの政治家の関心事は「利権と選挙」だけだと感じられる。「東京オリンピックの延期決定までコロナ感染対策が進展しなかったのは、国民を人質にしたオリンピック関係者の利権確保だ」と指摘する人は多い。また、世論調査や国民意識調査などの結果を気にして多くの政策が決定されるという現実がある。これも「選挙に有利な国民受けする政策」を実行するためである。国民の動向だけを理由に政策を決定するなら、政治家などいらない。官僚もまたしかりである。
「持続化給付金」などにみられるように、自分たちは汗もかかず下請けに丸投げするだけ。挙げ句の果てに、こうした業者との癒着が指摘される始末である。こんなやり方で国民の実態が把握できるのだろうか。これでは責任ある方針の策定など期待しようがない。
◆稲森さんの至言に学ぶ
「科学的データを使ったシナリオの作成」もお寒い限りである。4月のコロナ第1波が収束し始めると、政府・財界・一部マスコミは経済優先へと舵を切った。この方向性に私も異論はない。しかし世界ではいまだに、コロナ感染者が急速に拡大中である。感染症対策を忘れてもらっては困る。「感染症対策と経済対策をどのようにバランスをとって推し進めるのか」。今、そのシナリオ作成が必要な時期である。「どのくらいの感染率が経済にも感染症にも最もダメージが少ないのか」「またこの感染率を達成するためにはどのような対策が必要なのか」――といった議論の様子が聞こえてこない。現在の日本は、ムードに流されて感染症対策と経済対策をマッチポンプのように動かしているだけである。
その悪しき例が「東京アラート」ではないか。当初の「東京アラート」は数値の設定の根拠もよくわからなかったが、この数値の上限を超えたにもかかわらず、アラートが発令されなかった。また途中で数値目標のない項目が追加されるなど恣意(しい)的な運用が可能であり、とても国際基準に合う科学的手法とは言えない。どう考えても、先進国家として体(てい)をなしていない。
コロナ対策の方針の情報公開は、これまで専門家会議が独自にやってきた、と私は受け止めている。安倍首相や西村大臣の会見では、科学的根拠を基にした具体的なコロナ対策の方法について述べられていない。この2人が新型コロナについて、どれくらい勉強されているのか疑問に思ってしまう。しかしいまや専門家会議も廃止される事態となり、これからは誰が政府の見解を語ってくれるのであろうか。この面でも不安が募ってくる。
京セラの創業者である稲盛和夫さんは、自身の経営者経験を生かし多くの経営書を執筆されている。その素晴らしい経営哲学から、稲盛信者が多くいる。稲盛さんは多くの至言を語られているが、その一つに「人生の方程式」なるものがある。
人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力
今回のコロナ感染対策を成功させるためには、責任者である政治家や官僚がこの方程式に沿うだけの素養を兼ね備えている必要がある。「彼らは」自分の利権ではなく、国家や国民を第一に考える考え方を有しているであろうか。「彼らは」責任逃れに陥ることなく、まっすぐにコロナ対策に向かう熱意を持っているであろうか。「彼らは」日々変わるコロナの新規情報を勉強し続けるだけの能力を持っているだろうか――。
今、「彼ら」日本の政治家・官僚たちは、新型コロナ対策において、本当の力量が問われるところに来ている。
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