小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住22年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
残念ながら、タイの市中感染ゼロの連続日数記録はこのほど、100日で途絶えてしまった。新型コロナウイルス感染対策の優等生国とされるタイでは、感染者が毎日ゼロの記録を更新していても、多くの人々は依然としてマスクを着用し、ビルへの入館時には必ず体温検査を行う。また消毒用のアルコール液もいたる所に置かれ、人々は気楽にこれを利用する。感染の抑え込みに成功したため、学校は再開され、街には活気が戻ってきた。街に人が戻り、バンコク市内の道路は再び交通渋滞に。飲食店に設置されていた飛沫(ひまつ)対策用のアクリル板は撤去され、人気レストランでは人々は「密」状態で食事をしている。新型コロナの流行前と大きく異なるのは、外国人の新たな入国を厳しく制限していることと、タイ式ボクシングのようなスポーツイベントが解禁されていないことくらいだろうか。映画館や音楽会などは座席の間隔を大幅に開けて既に再開されている。
バンコクに住む私の最近の身の回りを俯瞰(ふかん)すると、ざっとこんな感じだが、コロナ禍によって人々の生活パターンが少しずつ変わってきているように見える。こうしたコロナ禍による生活パターンの変化を「新常態(ニューノーマル)」という言葉で表すようだが今後、確実に定着していくように思われる。
今回のコロナ禍による変化を「ビジネスチャンス」としてとらえ、動きだしている人や企業がいる。一方、コロナ禍の影響を深刻に受け止め、今もじっと首をすくめて耐え忍び、新型コロナの流行前と同じビジネスモデルに回帰しようとする人もいる。しかしこうした人たちは、やがて「負け組」となっていくだろう。タイではすでにそうした兆候で出ている。
今回は、私が気付いたこうした「タイにおけるコロナ禍による小さな変化」について述べていきたい。
◆観光業はインド・中東地域からの富裕層受け入れで活路
新型コロナによるロックダウン(都市の封鎖)や外国人受け入れ禁止の影響を最も受けたのは飲食業や観光業で、この点ではタイも日本も変わらない。タイの国内総生産(GDP)に占める観光業の割合は2019年で12.8%と、かなりの比重である。
今年3月以降、外国人の入国を厳しく制限したため、バンコクを含む観光地のホテルやサービス産業は壊滅的な打撃を受けた。統計が出ていないので詳細は不明だが、バンコク市内のスコータイホテルやシェラトングランデなど有名ホテルを含め、半数以上のホテルが一時休業に追い込まれた。営業を続けたホテルでも客室の稼働率は20~30%程度だと聞く。ホテルの従業員の50%以上が解雇され、残りの人たちも隔週勤務となり、給与は半分しか払われない。
タイはコロナの市中感染が100日間なかったが、現政権を主導するプラユット首相をはじめとする軍関係者は、経済対策よりも医療関係者の提言に多く耳を傾けていると医療従事者から聞いた。外国人受け入れに関する厳しい規制を撤廃することは当面、期待薄である。もちろんプラユット政権も観光業の壊滅的状況に手をこまねいて見ているだけではない。タイ版「Go To キャンペーン」を行い、タイ人による国内観光の推進を支援している。幸いにも現在、タイ国内ではタイ人旅行者も気軽に国内移動ができるようになり、最近では国内線の空の便は満席状態に戻ってきているという。
タイの観光業は従来、外国人旅行者に大きく依存してきた。国内観光の斡旋(あっせん)だけではとても以前の状況には戻らない。タイは、観光業のGDPに占める割合が日本に比して圧倒的に大きかった。窮地にある観光業の復活のためにタイの政府関係者が考えているアイデアの一つに、インド・中東からの富裕層の受け入れがある。
タイは世界的にも、新型コロナの感染抑制が高い評価を受けており、回復度を指数化した「回復指数」で世界一だとする調査の結果もある。一方で、世界の大半の国では依然として、新型コロナは感染拡大中である。特に貧富の差が激しい国ではこの傾向が顕著で、インドや中東もこうした地域に該当する。新型コロナの感染が拡大しているインドや中東の富裕層の人たちは自国から脱出したがっているといわれている。インドの富裕層は総人口13億人の1%とされ、その半分の6百万人のインド人富裕層がタイに半年間滞在すれば、コロナ禍によるタイの観光業の落ち込みをカバーできるとの試算もあるという。タイ政府部内では、インドや中東からの長期滞在者の受け入れ地や受け入れ方法をめぐって議論が続いているが、新型コロナを実質的に制圧したタイだからこそ展開できるユニークな観光施策だと思う。
◆飲食業の優勝劣敗
飲食業も、コロナ禍によって大きく業態を変えつつある産業である。わかりやすい変化で言えばまず、フードデリバリーの日常化である。フードパンダ、グラブフード、ラインマンなどスマートフォンで食事を注文できるサービスが充実し、ロックダウンによって飲食店が閉鎖されていた間もこうしたサービスを利用すれば飲食店の料理がふだん通りに楽しめた。
タイでは現在、飲食店の営業は通常に戻っているが、結果としてこうしたデリバリーサービスに積極的に取り組んだ飲食店は生き残っている。ただし、タイ人はこのデリバリーサービスの便利さに慣れてしまい、かつてほど飲食店を利用しなくなっているようである。
バンコク市内の飲食店の現在の優勝劣敗の状況を見ると、タイ人富裕層向けの高級レストランは以前の活況を取り戻している。タイ人は日本食が大好きだが、特にすしの人気は高い。このため、高級すし店の中にはロックダウンによる店舗閉鎖中でも1日50食ほどの高額仕出し弁当の注文があったようだ、と日本食品卸売業者の方からお聞きした。現在も高級すし店や一流イタリア料理店などは満席状態のようである。
一方で、ショッピングモールなどにチェーン展開している飲食店の客の入りはいま一つのようである。飲食店で食べても自宅で食べても雰囲気に大きな差がないようなら、タイ人は自宅で食べるという選択になるようである。また、日本人向け飲食店の売り上げも芳しくないようである。コロナ禍の影響で自動車産業を中心に在タイ日系企業の業績が悪化し、これに伴い交際・接待費も大幅に削減された。これによって、日本人駐在員の会食はなくなってしまった。また、日本人派遣社員の削減も影響しているようである。バンコク市内にある日本人向け歓楽街タニヤ通りのカラオケ店では、客の入りもホステスの数もピーク時の3割程度だと聞いている。
飲食業のつながりで言うと、食材関連の売り上げは大きく伸びている。スーパーマーケットの売り上げは前年以上。冷凍食品やインスタントラーメンなどの食品加工業の売り上げも堅調である。タイ人女性が家庭で食事を作ることが一つのファッションとなってきたようである。日本食材の卸売店でマグロのトロの大きな切り身をタイ人女性が買い求めていくそうである。また従来、小麦粉を業務用として大量販売していた会社が、卵を加えるなどのちょっとしたアレンジをしてパンケーキ粉やてんぷら粉などとして小口販売したところ、タイ人主婦層に爆発的に売れているそうである。こうしたタイ人の小さな行動変化も十分に注視していく価値がありそうである。
◆オンラインショッピングの急成長とデパート業界の凋落
日用品購入のオンラインショッピングの利用も、後戻りできない潮流になっている。タイでは中国のアリババが資本出資するLazada(以下ラザダ)とShopee(以下ショッピー)が2大勢力となっており、残念ながら日本勢はこの分野で存在感はない。ショッピーはコロナ禍の中で急速に勢力を拡大してきたが、その配送網の構築が面白い。
我々バンコクに住んでいる者にとっては見慣れた風景に「バイクタクシー」がある。町全体に占める道路占有率の割合が低く、かつ自動車保有台数が多いため、バンコクでは交通渋滞は当たり前。また熱帯モンスーン気候で、1年中暑いバンコクの町中をタイ人は歩きたがらない。大通り沿いにある「ソイ」と呼ばれる小路には、2輪車バイクを利用したタクシーがいたる所で客待ちをしている。ショッピーはこのバイクタクシーを組織化し、配送網に仕立て上げたのである。バイクタクシーであれば街路の隅々まで熟知しており、配送で迷うことはない。バンコク市内には網の目状に小型配送センターが設置され、バイクタクシーの運転手は荷物1個当たり30バーツ(約100円)前後で配送を引き受けているようである。朝晩はバイクタクシーの運転手として、日中は配送業に従事することで運転手たちの月収は3万バーツ(約10万円)以上と倍増したようである。
ラザダもショッピーも、越境EC(国境を越えて通信販売を行うオンラインショップ)にも極めて積極的である。オンラインショップで売れている商品はコンピューター用品、家電製品、キッチン用品など家庭で使うものが多く、ファッション製品の売り上げは伸びていない。これら売れ筋商品を見れば中国製、台湾製、韓国製のものが多く、海外からタイの消費者に直接届けているケースも多いようである。
一方で、倉庫の建設も急ピッチで進んでいるようである。コロナ禍の影響でタイの工業団地の土地購入が激減しているが、その中にあって、中国企業などがアマタシティー(ラヨーン県)やピントン(チョンブリ県)といった工業団地の土地を買いあさっている。タイの貿易最大国が日本から中国に代わってすでに10年近くがたつが、中国はいよいよタイでの存在感や経済的影響力を強めてきている。
オンラインショッピングの急成長と好対照なのが、デパート業界の地盤沈下である。デパートの主力商品が化粧品や衣料であるため、外出する機会が減ったタイ人の購入意欲が大きく落ち込んでいる。この主力商品の落ち込みがデパート凋落(ちょうらく)の直接の要因だが、デパートという業態が人々に夢を売れなくなったことが深層の原因ではないだろうか。
その象徴的な出来事が、タイの伊勢丹の今年8月末の閉店である。伊勢丹は1992年にタイに進出して以来、タイのファッションをリードしてきたがここ10年は、進化を続けるタイのショッピングモールに勝てなくなってきていた。
2020年9月8日付の日経新聞によると、世界主要企業の直近4半期の純利益において、アリババが世界第43位から第9位に大躍進した。ちなみに米国のアマゾンも第15位にランクインしている。伊勢丹にみられるデパート業界の低迷を尻目に、中国のアリババに代表されるオンラインショッピングの飛躍は目覚ましい。残念ながら、この業界において世界で通用する日本の企業はない。
◆拡大する貧富の差
食品スーパーを除いてデパートの売り上げは低調だが、ショッピングモール内で気を吐いている店舗がある。エルメスやルイヴィトンに代表される高級宝飾店である。外国人旅行者が入国できなくなったため、こうしたお店は閑古鳥が鳴いているかと思ったが「あに図らんや」である。日本、タイともこうしたお店は前年以上の売上実績を残しているようである。
今回のコロナ禍による経済低迷は「金持ちはより金持ちに、貧困層はより貧しく」といった特徴が出てきている。所得水準がもともと相対的に低かった飲食業や観光業の人たちが最も影響を受け、廃業や失業の憂き目にあっている。タイでは今回のコロナ禍で800万人が失業したといわれているが、この大半は地方の故郷に帰り、農業に従事している。1997年のアジア通貨危機の際も同じことが起こった。タイは依然として農業大国で、失業者を農業で吸収しうる懐の大きさを持っている国である。
一方、富裕者層は、働かなくても配当金や地代などで安定した収入が見込める。世界の主要国はコロナ禍を受けて、金融緩和を実行した。中国や米国などでは株価が過去最高値につけている。日本は2018年時点で個人株主数(名寄せ後)は1984万人。この層が日本の富裕層を構成すると考えられる。アベノミクスの金融緩和策は日本の人口のわずか15%の富裕層だけが恩恵にあずかる施策なのである。コロナ禍でも収入が減少しなかった富裕層は、海外旅行に行く機会を逃し、せっせと高級宝飾品を買っているようである。タイの高級すし店や一流イタリア料理店が繁盛しているのも、こうした流れに違いないのである。
◆流れを先取りして「勝ち組」に
さて、コロナ禍と直接関係ないように思われるが、タイで静かに進行している、香港人と台湾人のタイでの不動産取得の動きについて紹介したい。香港の人権弾圧の様子は日本のマスコミでも頻繁に報道されている。香港人や台湾人を含む中国人は、自分の子孫を後世に残すことを最重要視している。1990年代、香港の中国返還が間近に迫ると、香港人と台湾人は中国共産党による武力行使を恐れ、家族の一人を米国やカナダに移住させた。私は1987~94年に米ロサンゼルスで勤務し、香港や台湾出身のこれら華僑の人たちと親交を深めた。現在再び中国共産党の脅威が強まってきており、香港人や台湾人は子孫保護のため家族の海外移住を考えている。
タイ政府関係者の一部は、こうした香港人、台湾人の受け入れを積極的に検討し、金融センターの設立をもくろんでいる。コロナ禍の影響で米中対立がいっそう先鋭化し、香港の人権派に対する中国の弾圧が生まれた可能性が高い。こう考えると、香港人と台湾人の受け入れ問題も、コロナ禍後の新常態の中での必然的な流れとして検討する必要がある。
タイではすでに、新常態に切り替えた企業が「勝ち組」として基盤を築きつつある。変化を積極的に利用する気概のない人たちは敗者として消えていくしかない。「新常態を先取りすることによって、多くの日本人や日本企業に勝ち組になってほしい」と切に願っている。
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