小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住22年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
私の住むタイは、世界で最も新型コロナウイルスの抑え込みに成功した国の一つに挙げられるだろう。軍人主導のプラユット政権がゆえに、海外から見ればかなり強権的に見えるコロナ対策を実行してきた。感染症に対して慎重かつ臆病なタイ人の性格もあって、この4カ月間で市中感染はほんの2~3例にとどまっている。コロナをほぼ抑え込んだタイの新常態(ニューノーマル)については、拙稿第177回「タイに見るコロナ禍後の新常態」で紹介させていただいた。
◆本能を無視したビジネスモデルに成功なし
昨今の日本のニュースからは「コロナワクチンの完成が目前に迫っている」といった見方が多く見受けられる。これを心理学では「正常性バイアス」と呼ぶ。人間は科学的根拠がないにもかかわらず、自分の都合の良いほうに解釈する癖がある。一方で、「コロナは風邪と同じで致死率が低く、感染しても恐ろしくない」という意見もある。日本を含む東アジアは世界の他の地域に比べてコロナの感染者も少なく、死者も低く抑えられている。
セロトニン受容体が少なく臆病な性格とされる日本人ならびに東アジア人は、マスクの着用率も高く、感染の広がりが抑えられている。しかし世界に目を向ければ、感染の第二波が広がってきている。一度はほぼ正常状態の市民生活を取り戻したヨーロッパ諸国も、再度「都市封鎖」や「国家封鎖」などの措置を講じなければいけない状況に逆戻りしている。こうしたことを考えると、コロナ流行前の2019年の生活様式がそのまま復活することはありえないと思われる。
コロナによって人々の生活はどのように変化するのであろうか? すでに多くのメディアによってこうした議論は行われてきているが、私なりの理解をここで簡単に披露したい。
まずその第一は、人の移動の減少であろう。コロナによって最もダメージを受けた産業は観光・サービス業である。コロナの感染が続く中、多くの国において海外からの人の受け入れは制限された。また、自国内の移動についても、都市封鎖などで制限を受けてきた。旅行業、ホテルなどの宿泊業、航空産業・鉄道などの交通機関、さらに飲食業などの中には廃業・倒産に追い込まれているところもある。いったん縮んだ経済は、コロナ後も回復に時間がかかる。人の往来もすぐに回復することは考えられない。
2番目は、自宅需要の増加である。人々は自宅で過ごす時間が多くなり、便利で豊かな時間を過ごすため、家電製品や家庭用品に金をかける。ビデオやゲームで過ごす時間が増える。自宅での調理や料理のデリバリーも増加する。
3番目に非接触型生活の一般化である。在宅勤務によるオンライン会議やオンライン通販での買い物、オンライン決済など非接触型の行動様式は、これまで以上に人々の生活の中に入り込んでいる。
歴史を振り返ると、大変な社会危機は新たな社会構造を作り上げてきた。この危機をビジネスチャンスとして捉え、積極的に変化を先取りすることが生き残り策として重要なことは、これまでも指摘してきたところである。
コロナ禍後の「勝ち組」となるためには、先述の3点を勘案したビジネスモデルの構築が必要である。一方で我々人間には、生物として持ち合わせた「本能の動き」がある。こうした生物として本能を無視したビジネスモデルもまた、成功へとは結びつかないだろう。今回は、こうした人間が本来的に持つ性質について、生物の進化の歴史から考えてみたい。
◆人類の進歩の歴史
そもそも地球上に生命が誕生したのは、37億年前ぐらいだと言われている。これから述べる年代については諸説あり、かつ新たな発見によって、その年代も常に更新されてきている。ここでは私が知る限りの最も新しい年代を使って述べていきたい。
私たち人類の祖先である生命体は、単細胞の「真正細菌」として誕生した。この後30億年の長い歴史を経て、多数の「真核細胞」を持つ動物が誕生したのが今から6億5千年前。地球全体が氷河で覆われた全球凍結を経て、5億5千年前に「カンブリア紀」と呼ばれる時期を迎え、多品種の生物が誕生した。この頃の私たちは、まだ水中での生活である。この頃、生物に脳が形成されたようである。
4億年前ごろに、ようやく生物が地上に進出した。2億5千年前、シベリアの大噴火により地球に二酸化炭素が大量発生すると、低酸素で生き残ることができた恐竜時代「ジュラ紀」を迎える。1億5千年前、私たちの祖先は低酸素時代に生き残るため肋骨(ろっこつ)を小さくし、横隔膜を進化させた。哺(ほ)乳類の誕生である。哺乳類は肋骨を退化させたことにより、体内で胎児を育てることが可能となった。卵のように外敵に襲われる危険も少なくなり、確実に子孫を残すことができるようになった。また、乳幼児に対して授乳を行うことにより、脳内にオキシトシン(社会行動の積極性を高めるホルモン)が登場。授乳を通して親子の愛情が生まれるようになった。
6600万年前、地球に巨大な隕石(いんせき)が衝突すると、急速な寒冷化により地球上から恐竜が絶滅。その頃、私たちの祖先である最初の霊長類が登場する。その後、地球温暖化で広葉樹が巨大化すると、樹間移動のために霊長類の眼が進化。立体的な視野を確保するため両目の位置が平行となった。併せて、眼の下に周囲に感情を伝える表情筋が発達。霊長類は表情筋を使ったコミュニケーション技術を確立し、共同社会が構築された。
さらに私たちの祖先となる人類がチンパンジーと分岐したのが、700万年前。骨盤に筋肉がつき、足の指が平たくなっていく。人類は徐々に地上生活に移行していくが、二足歩行により自由になった手が人間の進化を助ける。
260万年前ごろから、「オルドワン石器」という原始的な石器が使われ始める。人類が最初に手にした道具である。240万年前に最初のホモ属であるホモ・サピルスが誕生。同時期の他の人類であるパラントロプスの脳の量が500mlであったのに対し、この頃のホモ属の脳量はその倍の900mlあった。
40万年前に登場したホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人) の脳量は、私たち現生人類の脳量を超える1400mlにまで成長した。脳量の増加が影響したのであろう。180万年前ごろにこの地球に登場していたホモ・エレクトスは、アシュール石器など高度な道具を制作した。また体形もかなり変化し、足が長くなり長距離走も可能となった 。
このホモ・エレクトスは180万年前ごろ、出生地であるアフリカを脱出し、全世界に拡散。アジアではジャワ人、北京原人などとして知られる。私たち人間の知能が身体的に大きく変化したのが、この200万年前からである。
さらに、私たち現生人類であるホモ・サピエンスがアフリカに初めて出現したのが約30万年前と推定されている(最近の核DNA分析からは、50万年以上前にホモ・サピエンスが分岐されたと計算されている)。
この当時、人類の中で最強を誇ったのが、氷河期のヨーロッパに生存していたネアンデルタール人である。ホモ・サピエンス以上の脳量と屈強な体形を持っていた。10万年前から何度か出生地であるアフリカから域外に出ようとしたホモ・サピエンスは、その都度ネアンデルタール人に撃退されていたようである。しかし、ホモ・サピエンスにはネアンデルタール人が有していない特徴を持っていた。内顎(あご)と喉仏(のどぼとけ)の構造の違いである。この口内の違いが、ホモ・サピエンスに豊富な言葉遣いという貴重な財産をもたらした。
近年、この豊富な言語体系をもたらした要因として、「FOXP2」という遺伝子の存在が脚光を浴びている。一方で、「たった一つの遺伝子だけでこれらの違いが発生するか?」という疑念も生じさせているようである。
いずれにしても、言葉を上手に操れるようになったホモ・サピエンスは、この言葉を武器にして、より大きな集団生活へと移行していく。ネアンデルタール人が絶滅した約3万年前、そのネアンデルタール人は20人程度の集団生活を行っていた。ところが、ホモ・サピエンスはすでに400人程度の社会を構成していたようである。
さらに時代をたぐると、私たち人間が「出アフリカ」に成功したのが6万年前。農耕や牧畜などで定住化し、生物界の食物連鎖の頂点に立ったのが1万2千年前。人間が文字を開発したのはわずか6千年前のことである。その後の人間の進歩は目を見張るものがある。
◆人間の進化の背景に「社会性」
さて、こうして生物の進化の歴史を紐(ひも)解いてみると、「いかに人間が社会性を武器として使い、ここまで進化してきたか」ということがわかる。その社会性を作り上げてきた要因は、生物の長い進化の歴史の中に見て取れるのでる。繰り返しになるが、まず5億年以上前に生物に脳が形成される。1億5千年前に哺乳類が誕生すると子供の養育が始まる。6600年前に誕生した霊長類になってからは表情筋を使ったコミュニケーション。700万年前、人類誕生による二足歩行と道具の開発。240万年前、ホモ属誕生により脳量が大幅に増加するとともに言葉によるコミュニケーションの開始。こうした人類の長い進化の歴史によって、私たち人間を人間足らしめんとする「社会性」が作り上げられてきたのである。
一方で、生物の歴史は私たちにもう一つの重要なことを気づかせてくれる。「人間がいかに知的な存在だと振る舞ったところで、私たちがこうした生物界の食物連鎖の頂点にいるのは、37億年の生物の歴史の中でわずか一瞬のことである」という厳粛な事実である。
生物の進化の歴史を語るうえでたびたび使われる手法だが、37 億年を1年365日に置き換えてみると、ホモ・サピエンスが誕生したのは12月31日午後11時17分ということになる。私たちはまだ、1年のうちの43分しか生きていない。最近の脳医学では、人間の脳の構造や働きが次々と解明されてきている。
私たちは「自分たちの意思で何事も決め、将来を創造している」と思い込んでいるが、私たちの生活の大半は無意識の中で行動決定がされている。よしんば、意識的にものごとを決定していると私たちが思い込んでいる事柄さえも、脳内では「反射」と呼ばれる動物的本能で決断されている、ということがわかってきている。人間の土台には、生物としての機能がしっかりと備わっており、この部分の影響が我々の生活の大半なのである。
私は本稿の冒頭部分で、コロナ禍後は
① 人の往来の減少
② 自宅需要の増加
③ 非接触型の生活の一般化
の三つが起こり得ると指摘した。しかし一方で、これらの行動様式や私たち人間が進化の過程で手に入れてきた「社会性の維持・発展」とは真逆の動きになりかねない。私たちは生物である以上、本能を無視する行動を取り続けることは難しい。新型コロナウイルスの感染リスクを最小限にするとともに、「社会性維持」という私たち人間の本能を両立させたビジネスモデルの確立が求められている。
※ 『バンカーの目のつけどころ、気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第177回 タイに見るコロナ禍後の新常態(2020年9月18日)
コメントを残す