小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住22年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
日本で新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからない。幸いなことに、日本の感染者総数や死者数の数字は欧米諸国や衛生後進国であるインド、ブラジルと比較して格段に少ない。しかし今冬の第3波は、従来の感染拡大の状況と比較しても感染者数や重症者数の増加が著しく、一部地域では医療崩壊を起こしてしまっている。一方で、私が住むタイ。これまでほぼ完璧にコロナ感染を抑え込んできたが、残念ながら最近になって大規模なクラスター(感染者集団)が発生してしまった。12月17日にバンコク郊外の魚市場でミャンマー人労働者のコロナ感染が確認され、その週末に1万件以上のPCR検査を行ったところ、1200人ほどが陽性であることが判明した。この魚市場には従来、多くのミャンマー人労働者が働いており、不法移民も多くいるようである。感染者の9割がこの地区に居住するミャンマー人だったが、魚市場に出入りする仲買人などを経由してバンコクを含む他の地域でも感染が確認された。タイ政府は現在、全力を挙げて感染拡大を防ぐ手立てを打っている。しかし、市中に一度ばらまかれたコロナウイルスを退治するのは容易ではない。しばらく時間がかかるだろう。
さて、同じアジアに属し、コメを主食として仏教を信仰するタイ人。ジェトロ(日本貿易振興機構)・バンコク事務所が12月15日に発表した集計結果によると、このコロナ禍の中でもタイ全土での日本食レストランの店舗数は13%増加し、4千店を超えるに至った。タイ人は間違いなく世界一の親日家でもある。そんなタイと日本。両国には類似点が多いにもかかわらず、直近のクラスター発生を含めても両国のコロナの感染状況には大きな隔たりがある。これはいったいなぜなのだろうか? 今回はコロナ対応によって顕在化してきた日本とタイの文化・社会の違いについて私論を展開したい。
◆先行するタイ政権の誤ったイメージ
まず最も顕著な日本とタイの相違点を挙げるならば、気候と温度であろう。タイが熱帯モンスーン気候なのに対し、日本は温暖湿潤気候に分類される。タイは1年を通してほぼ30度以上の夏の気候であり、湿度も高い。寒く乾燥した冬期を持つ日本とは大きく異なる。
今回の新型コロナウイルスは熱に弱く、一方で乾燥した空気中ではウイルス感染を伝播(でんば)させる飛沫(ひまつ)の空気滞留時間が長くなる。新型コロナ発生直後から予想されていた冬期での感染拡大は、実際に北半球の各国で起こっている。コロナ感染拡大の基礎的条件面でタイは日本に比較して有利な気候条件を有していることは疑いがない。しかし単純に気候という理由だけでタイのコロナの感染拡大が止められているわけではない。同じ気候条件である東南アジアのインドネシアやフィリピンでは日本以上の勢いで感染拡大が続いている。いくつもの要因が複合的に組み合わさって各国でコロナ感染拡大の違いが出てきている。
気候の次に日本人がよく口にするのは、「タイは(事実上の)軍事政権だから、コロナの感染を抑え込むことができている」といった理由である。しかし私は、この理屈に対して強い疑念を持っている。それはこの理屈が合理的に因果関係を説明していない単なる「レッテル貼り」になっているからである。
なぜ軍事政権だとコロナの感染を抑え込めると言えるのであろうか? そこには「暴力的な行為に明け暮れる軍人が、強権的に人々を家に押し込めている」イメージがあるようだ。タイの反政府デモの過激な衝突場面だけを切り貼りして報道されているニュース番組などを見て、日本に住む人たちは軍事政権のイメージを刷り込まれているような気がする。しかし、バンコク市内で住んでいて、市民たちは日常の中で軍隊を見ることはほとんどない。反政府デモに対応しているのも警察で、軍ではない。
軍が一般市民の生活を脅かすことは、タイ在住22年の中で見たことがない。私はこの22年間で軍によるクーデターを2006年、2014年と2度経験したが、いずれも無血クーデターであった。2006年のクーデターの時には、陸軍は示威行動のため戦車などを街中に配置したが、当時の市民の多くは政情混乱を収めた軍に対して感謝の念が強かったように思わる。それが証拠に、街の中に配置された戦車にはたくさんの花束が送り届けられ、兵士と市民が花に囲まれた写真がタイの新聞の一面を飾っていた。それは東日本大震災などの災害時に支援に来た自衛隊に感謝を示す日本の被災者の人たちの姿によく似ていた。
いずれにしても、現在のタイは軍人が強権的かつ超法規的に国家を運営しているわけではない。選挙制度の成り立ちや制度そのものに疑義は残るものの、曲がりなりにも選挙を経て現在の内閣が組成された。プラユット首相やプラウィット副首相など陸軍の退役軍人が依然として重要なポストについているものの、大臣や副大臣など大半の人たちは文民である。また、行政は独立した各省庁を通して行われており、軍人による勝手な政策運営は不可能な状況にある。実際、タイの人たちは自由に街中を歩き、ショッピングや飲食を楽しんでいる。また、朝夕や休日には、散歩やジョギングを楽しむ人たちが公園に集まってきている。コロナの市中感染がほとんどなかったタイでは、人々はマスクこそしているものの、自由で心豊かな生活を送っているのである。
◆徹底したコロナ対策を優先するタイ
それでは何が、コロナの感染状況に関して日本とタイの違いを生み出しているのであろうか? まず私が指摘したいのは、コロナに対する政府の姿勢の違いである。日本では12月に入り連日ようにコロナの感染者数や重症化患者数が過去最高を更新している。それにもかかわらず日本政府は観光支援策「Go Toキャンペーン」を強硬に継続しようとしていた。さすがに世論調査で内閣の不支持率が支持を上回るようになり、政府は慌てて年末年始の期間限定でキャンペーンの一時停止を決めた。しかし「コロナ対応で経済が悪化すれば自殺者が増える」といった菅首相の発言からもわかる通り、現内閣では経済活性化がコロナ対策より重要視されている。
一方、タイ政府は「市中において一人の感染者も出さない」という徹底したコロナ対応優先の方針を打ち出している。タイ政府は5月末に国内での市中感染者をゼロに封じ込めた後も、海外からの入国者の規制解除は慎重かつ段階的に進めている。12月に入りようやく、世界各国からの長期の観光客の受け入れを閣議決定した。しかし現在も、すべての国外からの入国者に対して厳格なホテルでの2週間の隔離措置が徹底されている。
隣国と陸続きのタイは、近隣諸国からの不法入国者の管理が容易ではない。今回もこうした不法入国者たちによって、大規模な市中感染が発生したと言われている。こうした感染者が確認されると、タイでは従来から徹底したクラスター対策が行われてきた。感染者のこれまでの足取りを洗い出し、接触者を特定すると全員にPCR検査を行う。同様なケースとして、ミャンマーから不法に帰国したタイ人9人のコロナ感染が11月に確認されたが、約1か月をかけてしらみつぶしに感染者の足取りを洗い、4500人の接触者にPCR検査を行い、感染拡大を防いだ。タイの新聞もこれら9人の行動を詳細に報道し、市民に注意喚起してPCR検査を受けるよう呼びかけた。
タイでは、こうしたクラスター対策以外にも地道なコロナ対策を官民一体になって継続している。コロナの市中感染者がほぼいないと思われるにもかかわらず、バンコクの人々は街中でマスクを着けている(地方ではマスクを着けていない人も多く見受けられるようであるが)。バンコク市内ではビルに入る際は現在も必ず体温検査を受ける。アルコール消毒液も至る所に設置され、人々は気軽に使う。私の自宅近くの高架鉄道駅やショッピングセンターの清掃は早朝5時から始まるが、清掃員は手すりや券売機などを丁寧にアルコール消毒する。こうした小さな努力の積み重ねが、タイを「コロナフリー」の国にしているに違いない。
◆旧常態に固執する日本
ここでちょっと脱線するかもしれないが、コロナ対策の経済へのダメージについて検討してみたい。日本の政治指導者は「コロナ対策と経済政策の両立」を盛んに喧伝(けんでん)しているが、日本のやり方が本当に経済を生かしていると言えるのであろうか? 2020年の経済成長率予想は、奇しくも日本とタイは同率のマイナス6%とマイナス6.8%が予想されている。一方、両国とも経済に最もダメージの大きい観光業のGDP(国内総生産)に占める割合は、2019年で日本4.9%、タイ12.8%である(筆者試算)。このうち国内旅行者と海外観光客の貢献度を1:2の割合で見込むと、海外観光客のGDPに占める割合は、日本3.3%、タイ8.6%になる。すなわち両国とも2020年は海外観光客がほとんどいなくなったため、観光業からは日本3.3%、タイ8.6%の経済成長率のマイナス要因が発生した。
ところが、繰り返しになるが日本・タイとも2020年のGDPの成長率はマイナス6%台である。すなわち、日本は経済重視を打ち出しながらも外国人観光客の落ち込み以外にも、経済は2.7%のマイナス成長に転じてしまっている。一方、タイはコロナ対策を最優先としながらも外国人観光客の落ち込みの外側で1.8%のプラスの経済成長を実現させている。
これでは経済対策の側面においても、コロナの完全封じ込めに成功したタイの方が「勝ち組」と言えるのではないだろうか。もちろん、こうした見方はあくまでも推論であり、結果は2021年の両国の経済統計数値の発表を待つしかない。しかし、社会・経済状況をコロナ感染前の状態に押し戻そうとする日本の各種施策に、私は大いに疑問を持っている。「ニュース屋台村」11月27日付の拙稿「新常態が定着したタイの風景と反政府デモ」でも報告した通り、タイでは「新常態」(ニューノーマル)が根づきつつあり、こうした新常態を実現しつつあるタイを含む東南アジア各国に中国企業は虎視眈々(こしたんたん)と狙いを定め進出してきている。日本政府や日本企業は「旧常態」のままの発想に固執すれば、いずれ中国企業にかなわなくなるだろう。
◆国家観の違い
それでは、コロナに対する日本とタイの政府の基本的な考え方の違いはどころから生まれるのであろうか?
私が第一に思いつくのは、国家観の違いである。国家の定義や役割についてはこれまでも多くの学者たちが様々な見解を述べてきている。中でも近代国家の役割を最初に述べたのが、アダム・スミス(1723~1790年)の『国富論』であろう。アダム・スミスは国家の役割として、①領土と国民の保全②司法③公共工事(社会資本の整備)――の三つを挙げている。この後、1929年の世界大恐慌に対応するためのニューディール政策や、社会主義国家であるソ連(当時)への対抗の意味から、福祉・経済諸政策も国家の役割に位置付けるようになってきた。
しかし依然として、近代国家の最も主要な役割は「領土と国民の保全」である。これは戦争による他国からの侵略を防ぐだけではない。ペストや天然痘など病気や感染症などから国民を守り、国家を維持することもこの中に含まれている。今日の新型コロナ禍に対しても当然なことながら、国家は対応していかなくてはならない。
タイでは、プラユット首相を始めとする退役軍人出身の政治家たちは当然のことながらこうした国家観を強く持っている。これに対して、日本の政治家や国民は、国家に対して明確な理念を持っているとは思えない。「ニュース屋台村」2014年3月28日付の拙稿「今こそ日本再生を真剣に考えよう」でも述べたが、日本は「国家・社会・民族」がほぼ単一であったっため、この三つの概念を混然一体で考えている。
日本は島国で海外の国と遮断(しゃだん)され、かつ幸運なことに歴史上、外国から攻撃を受けたことがほとんどない。日本人にとって、国家や国民の安全は従来、「所与」のものであった。こんな環境にいたからこそ、日本人は明確な国家観を持たなくても問題がなかったのである。日本の政治家が「コロナ感染から国民の安全を守る」という発想を欠落させているのは、この国家観の違いに由来していると私には思える。
◆宗教・価値観の違い
コロナ対策に対する日本とタイの対応の違いの二つ目は、国民の宗教や価値観の違いに由来すると考えられる。タイは上座部仏教の国である。同じ仏教と言いながら、その教義や世界観は日本人のなじみ深い大乗仏教とは大きく内容が異なる。上座部仏教の世界観では、人間を含む生物は輪廻転生(りんねてんせい)の世界に生きており、天国、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道を無限に転生する。日本の大乗仏教で信じられるように人間は死後成仏することはない。
ちなみに「人間が死後に神(仏様)に昇華する」という日本の大乗仏教の考え方は世界でも極めて稀有(けう)である。タイ人は輪廻転生の考えに基づき、来世により良い世界に行くため上座部仏教で定められた戒律を守り、功徳を積む。来世を信じるからこそ現在の生を大事にするとともに、実際の生活の中での不便や不満をがまんする。タイ国民から絶大な敬愛を集めたプミポン前国王は常々「足るを知る経済」という言葉を使い、国民に現状の生活を満足していく生き方を啓蒙されていた。餓死も病死もなく死の恐怖を感じる必要のない豊かな国土を持つタイだからこそ、「足るを知る経済」は納得できる言葉になるのであろう。コロナに対して忍耐強い対応をするタイの人たちには、こうした世界観が強く影響しているのである。
一方で、仏教国と言われながら、大半の人々が無宗教である日本人。『サピエンス全史』などの著作で有名なユヴァル・ノア・ハラリ氏は、その著作の中で「民主主義」や「科学主義」も宗教と同じく人間の作り出した“物語”だとしている。ハラリ氏の説を附言(ふげん)すれば、日本人の宗教は民主主義や科学主義であると言える。「ニュース屋台村」2018年11月22日付の拙稿「日本の民主主義を考えてみる」で、ヨーロッパと比較した日本の民主主義の特殊性を議論した。日本人にとって「民主主義・自由・平等」は根元的な絶対価値にまで高められてしまっている。
ハラリ氏はまた、「民主主義や自由といった概念は資本主義や科学主義と融和性が高く、互いに補完しあって成立している」と述べている。まさに現代の日本人を物語っているような説明である。古典的な宗教観を持たず民主主義や自由を宗教にしてしまった日本人は、その自然な成り行きとして資本主義や科学主義を信奉する。資本主義や科学主義を成立させるためには、成長や進化の概念が担保されなくてはいけない。成長がなければ資本主義は破綻(はたん)する。進歩がなければ科学の目的が失われる。
「民主主義」や「科学主義」を絶対的価値にまで高め、宗教化させてしまった日本人。経済成長と進化への信仰が失われれば、自分自身の存在価値がなくなってしまうかもしれない。日本政府や多くの日本人がコロナ禍の中でも「経済優先」を唱え続けるのは、こうした日本人の価値観や世界観から由来するものではないだろうか? こう考えれば、コロナ対策に対する日本とタイの相違が見えてくる。
※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第182回 新常態が定着したタイの風景と反政府デモ(2020年11月27日)
https://www.newsyataimura.com/ozawa-44/#more-11360
第132回 日本の民主主義を考えてみる(2018年11月22日)
第96回 小乗仏教(上座部仏教)の国:タイ(2017年6月16日)
第18回 今こそ日本再生を真剣に考えよう(2014年3月28日)
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