小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住23年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。タイの日本人社会に激震が走った。タイの日本人社会のトップである「梨田和也駐タイ日本国特命全権大使(以下梨田大使)が新型コロナウィルスに感染した」というニュースが4月3日に日本人社会を駆け巡った。その後の新聞報道などによると、梨田大使は3月25日に在タイ日本大使館であった行事の後、その出席者たちとともにバンコク市内のナイトクラブで新型コロナウイルスに感染したようである。体調を崩した梨田大使は3月29日にPCR検査を受けて陽性が確定し、4月3日に感染事実が公表された。
◆「日本大使感染」に揺れた日本人社会
タイの日本人社会のトップである日本大使のコロナ感染はバンコクでもすぐにスキャンダル化し、梨田大使はバッシングの対象となった。タイでは昨年12月半ばにミャンマー人違法労働者を中心に新型コロナウイルス感染者が急増したが、今年3月初旬には1日当たりの感染者数は50人を切るほどになり、バンコクの繁華街も通常通りの営業に戻っていた。
そんな時期に梨田大使のコロナ感染がタイ社会に伝わったのである。そして、その後4月に入ると、タイではコロナの感染爆発が起きた。同じナイトクラブを訪れたタイの有名なテレビスターや運輸大臣までが次々に感染していくと、日本大使感染に対するタイ人の関心も急速に衰えていった。さらに、タイの旧正月であるソンクランの休暇中に感染者数も急増し、ここ数日は1日当たりに感染者数が1500人を超えるほどになってしまった。
タイ政府はこの事態を重く見て4月18日から、バーやナイトクラブなどの遊興施設の一時休業とともに、レストランや商店の閉店時間を繰り上げたり、店内でのアルコール提供を禁止したりするなどの措置を講じている。
残念ながら、バンコック銀行日系企業部に所属する日本人行員3人もコロナに感染してしまった。私どもバンコック銀行の場合、行内で感染者が確認された4月6日には職場の封鎖と消毒を実施。翌7日には対外発表を行い、全日本人行員へのPCR検査を速やかに実施した。幸いなことにこれら3人は重症化することなく、間もなく退院できる見込みである。
◆在タイ邦人の感染増加か
一方で、タイの日本人社会にも急速にコロナ感染が拡大している様相である。コロナが身近な話題となって数日しかたっていない8日の時点で、私のところには日系大手企業を中心に40人ほどの感染者情報が入ってきている。タイ政府は国別の感染者数は発表していない。このため詳細は不明ながら、日本人のコロナ感染者の実数はこんなものではないと思われる。
日本人が最も頻繁に利用するバンコク市内の大手S病院では4月8日にはPCR検査キットが底をつき、一般のPCR検査は受検不可能となった。さらに翌9日には入院ベッドも満床となり、陽性が確定した感染者も発熱などの症状がない限り自宅待機扱いとなっている。S病院だけではない。日本人居住区外にあるが日本人がよく利用するいくつかの有名病院でも、その頃にはPCR検査キットが底をつき、外部からのPCR検査は受検できなくなっていた。17日時点でもS病院には多くの入院待機者がいると聞いており、その多くが日本人ではないかと疑われるのである。
◆在タイ邦人の低い情報感度
タイでの日常生活ではこれまで、コロナに感染するリスクは比較的低いと感じてきたが、感染リスクがひたひたと迫ってきている。現に私も4月初めまではコロナ感染者とのニアミスを何度も繰り返してきたようである。恥ずかしながら、コロナの感染リスクを身近に感じたからこそ分かったこともたくさんある。
その第一は、コロナ感染に対する在タイ日本人の情報感度の低さである。前述の通り、タイでは昨年12月半ばにバンコク近郊のサムットサコン水産物市場でミャンマー人労働者を中心とした大規模なコロナ感染のクラスターが発生した。この時、タイの保健省は迅速に市場を閉鎖し、強制的に労働者にPCR検査を実施したと報道された。さらに、サムットサコン県をロックダウン(封鎖)して人の行き来を制限した。こうした効果が出て、今年3月初旬にはタイ全土のコロナ感染者数は1日当たり50人を切るほどになっていた。
この新聞報道などを受け、「タイはコロナ感染リスクがほぼなくなった」と多くの日本人は信じていた節がある。しかし、私が知るタイのコロナ感染の実態はこれとは異なるものであった。日ごろから多くの日系企業やタイ企業とお付き合いをし、多くのタイ人の友人を持つ私のところには、新聞報道などとは異なった情報が届いていた。まず、サムットサコン県におけるPCR検査であるが、タイ保健省による強制検査を受検した会社によると、検査は10人に1人の抽出検査であったという。また、タイの大手有力水産会社は保健省による強制立ち入りを政治的に抑え込み、検査を回避したという。こうしたことから、当時の市中感染者数は実際には政府発表の10倍以上いてもおかしくないと思われる。
別の人材派遣会社によれば、ロックダウンにもかかわらずサムットサコン県からの労働者のバンコク派遣は通常通り行われているという。またサムットサコン県で職を失ったミャンマー人労働者は、チョンブリ県やサムットプラカン県の水産物市場や地元の中小企業に大量に流れたという。どうもこうした情報が十分に日本人社会に伝わっていないようである。
最近とみに日本人とタイ人の交流が少なくなり、タイ人からの生情報が日本人に伝わっていないという弊害が出てしまったようである。かくいう私も、3月初旬からのコロナ新規感染者数の減少を見て油断していたことは否めない。しかし私は面前で調理する場合を除き、居酒屋ですしや刺身は食べないようにしている。多くの水産物食材はサムットサコン県の水産加工業で切り身にされ、バンコク向けに出荷されていることを知っているからである。今回のコロナ騒動の前から「タイにはコロナ感染リスクが依然としてある」と気を付けながら生活を送ってきたつもりである。
◆「科学的知見」を理解することの大切さ
二つ目に私が感じたことは「科学的知見の重要性」である。コロナの感染リスクを低減させるために、私が日ごろから注意していることは以下の五つである。
帰宅時や食事前の手洗い励行
不織布マスクの常時着用
他人との距離を1.5メートル以上維持
室内の換気
会議・会食は1時間以内で済ませる
こうした項目はいずれも、コロナ感染対策として従来広く推奨されてきたことであり、科学的にもその有効性が立証されている。正直に言えば、私は会食時のマスク着用と1時間制限について、たびたびルール違反を犯している。しかしおおむねこのルールを守っているからであろう、幸いなことに私はまだコロナに感染していない。
今回私を含めて多くの人がコロナ感染者と接触しているが、このルールを遵守(じゅんしゅ)していた人たちに感染者は出ていないようである。
また、コロナ感染者が身近に複数発生して初めて気づいたことがある。新型コロナウイルスは感染してから4日程度で発症する。また他人への感染は発症する2日前から発症後7日(米国CDC基準、日本の厚生省は9日)にほぼ限定される。コロナウイルスは次々と変異種が出てきているため、この基準は絶対ではない。
しかし、この基準がわかっているとコロナへの対処方法がより科学的になる。コロナ感染者のその感染時期が特定できれば、その感染者と接触した人の中でどの人がコロナの感染リスクが高いのか推定できる。また、コロナ患者の隔離期間も確定できる。第1次接触者も感染者との接触から4日後のPCR検査で「陰性」が出ればコロナに感染していない。これらのことは新型コロナウイルスのクラスター対策の「基本のキ」であるが、身近にコロナの危険が迫って初めて理解した。
◆自己中心的な行動への戒め
私が感じた三つ目の点は、「人間は危機が迫るとその性(さが)が白日の下にさらされる」ということである。今回バンコック銀行日系企業部では3人の感染者を出したが極めて早い段階で発見して対処策を打ち出せた。彼らは梨田大使のコロナ感染のニュースに接して、症状がないにもかかわらず自ら検査を受けに行き、コロナ感染の初期段階で発見された。
「コロナに感染していたら非難の対象になるかも知れない」という恐怖心と闘いながら、PCR検査を受けた彼らの勇気は称賛に値すると私は思う。前述の通り、バンコック銀行は職場封鎖、消毒、対外発表などを速やかに行い、感染の拡大防止に全力を傾注した。これも彼らの勇気のおかげである。
一方で、私のところに聞こえてくる日本人や日系企業の対応はこれとは真逆のものも多い。「PCR検査を安全に受けられる病院がない」「PCR検査結果の正確性に疑問が残る」などと言って、PCR検査を回避しようとした人の話を多く聞く。しかしいくつかの有名私立病院は依然として一般のPCR検査に門戸を開いている。またPCR検査が100%正確でなくても他の人への感染拡大を予防できる効果は十分にある。私にはすべて言い訳にしか聞こえない。
これらの人は、自分の身の保全のためコロナ感染の有無がわかるPCR検査を回避していると私には思える。言葉を返せば、「他人にコロナを感染させても気にしない」という人たちである。こうした自己中心的な行動はいずれ共同体を崩壊させる原因となりかねない。人間は他人への信頼なくして共同体を維持できないからである。
◆社会的分断の危機を知恵と実践で乗り越える
私たち人類は「欲望」や「恐怖」といった生物本来の本能をうまく利用して進化してきた。これらの事実は生物進化学、脳医学、進化心理学などによって近年、急速に解明されてきている。人間の脳内には960億個の神経細胞がある。このうち生物本来の行動機能をコントロールする小脳の神経細胞は800億個に対し、人間らしさを生み出す大脳皮質は160億個とかなり少ない。人間行動の大半は「一般生物」の無意識の行動によって占められている。
「コロナに感染しているかもしれない」という恐怖心の中で、私たち人間が「欲望」や「恐怖」といった生物の本能に基づいた行動をとることは仕方のないことかもしれない。一方で、人間が生物界の覇者となり食物連鎖の頂点に立てたのは、大脳を成長させ共同社会を構築してきたからである(「ニュース屋台村」2021年4月9日付拙稿「コロナ禍で科学的に生きることの難しさ」をご参照ください)。
新型コロナウイルスは人間社会を直接的にも間接的にも分断させようとしている。この危機に対応するためには私たちは改めて科学的に生きる知恵を学び、それを実践していかなければならない。
※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第191回「コロナ禍で科学的に生きることの難しさ」(2021年4月9日付)
第185回「笑う門には福来たる-コロナを生き抜く小さな知恵」(2021年1月15日付)