п»ї 品格はいる?いらない? 『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第145回 | ニュース屋台村

品格はいる?いらない?
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第145回

6月 14日 2019年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

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バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住21年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

我ながら年を取ったものだと思う。年配の人たちは若い人たちに向かって「今時の若者たちは……」と言うのは、いつの時代も変わらないことなのだろう。私だって若い時はそうしたことをさんざん言われてきた。しかし今この年を迎えると、思わずそう言いたくなる自分がそこにいる。

① 電車に乗る際に我先に座席の確保に走る若い人

② エレベーターの真ん中に立ち、乗ってくる人の邪魔をする人

③ 混雑する電車内で子供も乗っていないベビーカーを平気で広げたままにしている親

④ レストランで子供が駆け回っていても注意しない若い親

⑤ 静かな喫茶店内で音漏れするイヤホンを聞いていたり、大声で電話をかけたりする若者たち

こうした光景を見ると、ついつい腹を立てている自分に気づく。年を取るとこらえ性がなくなるようである。

つらさを乗り越えても他者に気を遣う

でも若者だけではない。老人たちだって結構ひどい。先日インターネット上で、老人が子供の座っていた1人用のバスの席に割り込んで座ったことが炎上していた。私が見てきた「品格のない老人の行動」も枚挙にいとまがない。歩道の真中を2、3人でゆっくり歩く。後ろで歩く人などお構いなしである。電車の中では荷物を隣の席に放り出し、立っている人がいてもどけようとしない。混んでいる電車の中での老人たちのいがみ合いなど日常茶飯事の光景である。また、電車の中で大声で話しているのもご老人だし、電車内でかかってきた電話に平気で長電話するのもご老人である。

私だって、だいぶ年を取ってきたので老人の気持ちがわからないではない。老人になれば平衡感覚が鈍るため、道の端を歩くことに恐怖を感じ、ついつい道の真ん中を歩いてしまう。耳が遠くなれば自然と声が大きくなる。年を取ると荷物をひざの上に置くのは体力的にもつらく、おっくうになる。「言い訳」を言えばきりがない。しかし、そのつらさを乗り越えても他者に気を遣うのが「品格」ではないだろうか?

いつの頃からだろう。誰に言われたのかも覚えていない。「レディーファーストを実践する西洋人のマナーは日本男子のお手本だ」などということを、私は自然に刷り込まれてきた。私が現在住んでいるタイのバンコクには日本人のみならず西洋人も多く住んでおり、私自身、アメリカ人、フランス人たちと顔見知りになり、話をする。

確かに彼らの行動を見ると、ゆっくりとした動作で物腰はやわらかい。また婦人や子供たちに対して常に気遣いをして彼らを優先して座らせたり、エレベーターで降ろしたりしている。また食事時には幼い子供たちも静かに席に座り、家族で会話を楽しんでいる。子供たちが悪い事をしても大きい声で怒鳴ることなく静かに諭している。ちょっと私には真似の出来ない光景である。西洋人はやはり品格がある。

変遷する「西洋人のマナー」

そもそも品格とはいったい何なのだろうか? 「品格」という言葉が日本人に一般に使われるようになったのは、2006年に発刊された『女性の品格』(坂東眞理子著・PHP新書)の影響が大きいとされる。「品格のある話し方」「品格のある装い」「品格のある暮らし」など全7章にわたり、どのようにすれば品格のある女性になれるか、というハウツー本である。

具体的には「約束をきちんと守る」「型どおりの挨拶ができる」「姿勢を正しく保つ」「ぜい肉をつけない」「良い事は隠れてする」「得意料理をもつ」「礼状を書く」など、こと細かく古典的な「女らしさ」を追い求める本である。美しい女性の一つの類型を示したもので、憧れを含めて女性からの支持も多い。古い人間である私などは、無条件にこうした女性像に郷愁を覚えてしまう。

しかしこの後に発刊された『日本人の品格』や『国家の品格』を読むと、武士道精神や皇室崇拝、日本礼賛論が語られ、胡散(うさん)臭さを感じてしまう。過去、武士道精神を究めた偉人もいただろうが、江戸時代の武士の大半は困窮と平和ぼけから刀を質流ししていたようである。こんな侍たちに武士道精神などあったのだろうか?

「万世一系(ばんせいいっけい)である皇室は他国に類を見ないから品格がある」と言うが、希少価値であることが直接「品格」に結びつくのであろうか? 「有史以来、民族や言語を一つに保っているから日本人が優れている」という議論があるが、遺伝子解析の進んだ現在、日本人はそもそも幾つかの民族が混じり合った雑種民族であることがわかっている。

「品格」という言葉をあいまいに使用することによって価値を付与しようとするいい加減な論理に接すると、せっかく好きになりかけた「品格」という言葉に不信感を持ってしまう。

そもそも人間が生きていく上で、「品格」なるものは必要なのだろうか? 私は5年前から夏休みを取ってヨーロッパ旅行をしているが、多くの発見をしてきた。そのうちの一つが、ヨーロッパに住む西洋人の多くが、私の信じていたレディーファーストなどの「西洋人のマナー」を実践していなかったことである。

ロンドンやパリ、マドリードなどの街中では「レディーファーストなどクソ食らえ」とばかり、みな争って出口に向かって歩いていく。電車内や公園のベンチなどでも、老人にお構いなしに若者たちが占拠する。もちろん、こうした大都市には移民も多く観光客も多い。こうした人たちには「西洋人のマナー」などない。肌の色が白くても、東欧や中東などから移り住んできた人たちがヨーロッパに多く住んでいる。

しかも英国、フランスなどでも若年層の失業率は高い。イタリアやスペインにおいては、若年層の失業率は30%を超えている。3人に1人は職がないのである。こんな国で移民だけでなく、国民全体に品格など求めようがない。とにかく生き残ることに必死なのである。こんな状況ではマナーや品格などと言ってられない。私が知っている「西洋式マナー」を実践している人たちは上流階級に限られるのであろう。

人類はそもそも、自分の種属の生存のために戦いを繰り返してきた。いまだに世界の至る所で自分の種属の生き残りをかけて戦争が起こっている。世界的な権威のある科学誌ネイチャーの2015年記事によれば、チンギス・ハーンの直系子孫が1600万人以上存在し、アジア男性の40%がチンギス・ハーンを含む11人の男性の血脈を受け継いでいるという。人を押しのけ、他部族を殺りくしてきた者が生き残ったのが人類の歴史である。どうも品格とは正反対の要素が人間の生き残りの条件のようである。こう考えると、品格はいらない。しかしこうした極論にも、私はどうもなじめない。

男性に大事にされたいと願う女性の気持ちの本質

今から20万年前に誕生した我々ホモ・サピエンスは、同時期に生存していた頑強なネアンデルタール人を押しのけて現在の人類へと進化してきた。なぜネアンデルタール人でなくホモ・サピエンスが生き残れたのであろうか? それは「ホモ・サピエンスが宗教を通して集団生活を営み始めたからだ」と言われている。

この集団生活を支えたのが「モーゼの十戒」などに代表されるルールの発明である。このルールが小規模集団の中でマナーや品格へ変遷していったのであろう。他者を押しのける武力と集団を維持するためのルールの微妙なバランスの中で人類はここまで生存してきたのである。こう考えると品格にも意味が見いだせる。

ここまでつらつらと考えてくると、はたと思い当たることがあった。人工知能研究者で脳科学にも精通されている黒川伊保子さんが昨年出版された『妻のトリセツ』(講談社新書、2018年9月)という本がある。男性脳と女性脳の違いを述べ、その違いから発生する男女の感情の違いや考え方の違いを深堀りしている本である。

大変読みやすかったので、私は半日で読み切ってしまった。この本の中で「女性は妊娠という危険行為を行うため、常に自分の身を安全な状態に置きたい、と無意識に振るまっている」というくだりがあった。これが女性が男性に大事にされたいと願う気持ちの本質なのだそうである。ところが、男性は自分が妊娠行為をしないため、こうした感情が理解できず、これとは逆の振るまいをしてしまうようである。

ここで黒川氏のアドバイスが目からうろこであった。「レディーファーストなどの西洋式マナー」の実践である。レディーファーストの扱いを受けることによって、女性は自然に「自分と自分の母体が大事にされている」と強く意識するのだそうである。「西洋式マナー」の中には家庭内の平和を保つための人間の永年の知恵が詰まっているようである。こう考えてくると、「品格」は私個人にとっては、やはり大事なようである。

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