小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住24年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
安倍晋三元首相がまたぞろ復活してきているようである。陰に陽に岸田文雄首相の「新しい資本主義」を批判して「アベノミクスの復活」を唱えている。国民にとって耳なじみがよい「アベノミクス」であるが、それによって実際には何がなされたのであろうか? また、どれほどの実績を上げたのであろうか? 第2次安倍政権が樹立されたのが2012年12月。私たちがこの「ニュース屋台村」を立ち上げたのが13年7月。私自身は13年8月から、安倍元首相がコロナ禍の中で政権を放り出した20年9月まで、アベノミクスの問題点を一貫して指摘してきた。今、岸田首相によって「新しい資本主義」が提唱されているが、その前に私たち国民はアベノミクスの評価をしなくてはいけない。自民党1強でほとんど政権交代がなかった日本では「なれ合い政治」が常態化し、過去の政策についての冷静で客観的な評価が下された試しがない。マスメディアも自民党政権からにらまれることを恐れ、こうしたことには及び腰のように思える。今回は、いまだに亡霊のごとくよみがえってくるアベノミクスについて、私なりに総括を行ってみたい。
◆国民は当初期待していたが…
「アベノミクス」は、1981年から89年まで米国大統領を務めたロナルド・レーガン氏が行った経済政策「レーガノミクス」を模して名付けられたとされている。名付け親は第1次安倍内閣時の中川秀直自民党幹事長のようであるが、国民にわかりやすく訴求する点は安倍元首相の長所である。さらにこのアベノミクスを国民に一般化するために、安倍氏は「3本の矢」なる言葉を使い、その政策の要所を広く知らしめた。3本の矢とは「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」の3本立ての政策を指す。90年代初頭のバブル経済を経て、日本の経済成長が完全に止まったのは、生産年齢人口(15歳から65歳)がピークアウトした97年である。第2次安倍内閣は12年12月に組閣され、日本経済の停滞からすでに15年が経過していた。こんな状況だったから、国民は安倍元首相の言葉を信じ、アベノミクスに大きな期待をしたのである。かく言う私もその一人であった。13年8月8日付と23日付の「ニュース屋台村」で、「今だからこそ問うアベノミクス」と題して、当時の安倍首相へのエールを込めて「アベノミクス」を取り上げたのである。
前述の通り、15年の長きにわたり経済停滞に甘んじてきた日本。幸か不幸か、私は87年のブラックマンデー以降最悪の経済危機に陥った米国、97年のアジア通貨危機で預金封鎖が行われ国民経済が破綻(はたん)したタイで、二つの経済危機に巡り合わせ、この目で米国とタイの復活を見てきた。そこでは痛みを伴った強烈な制度改革が断行されたのである。その強烈な米国とタイの制度改革を紹介するため、「今だからこそ問うアベノミクス」を執筆した。「抜本的制度改革無くして日本の復活はない」という私の信念が、この原稿の執筆に向かわせた。
まず米国では、①教育の自由化と教育責任の明確化②軍事技術のIT産業への転用③金融自由化とユダヤ人の進出――の三つが行われた。一方タイでは、①緊縮財政策の実行と労働法や破産法などの法律の整備②中銀の独立性確保と金融改革③FTA(自由貿易協定)推進によるグローバル化――の三つが行われた。詳しくは拙稿をお読みいただきたいが、それぞれ血を流す改革を断行したのである。
◆世界で大幅に低下した日本の存在感
それではまず、アベノミクスの実績を評価してみたい。以下の計数はアベノミクスの経済効果を喧伝(けんでん)するためによく使われる数字である。
①名目国民総生産(年度) 499.4兆円(12年)→535.5兆円(20年) 年率0.9%増加
②実質国民総生産(年度) 517.9兆円(12年)→525.7兆円(20年) 年率0.2%増加
③日経平均株価終値 10395円(12年) →27444円(20年) 2.64倍
④完全失業率(年平均) 4.3%(12年) →2.9%(20年)
⑤就業者数 6270万人(12年) →6664万人(20年) 394万人増加
⑥企業収益(年度) 48.5兆円(12年) →62.9兆円 14.4兆円増加
確かにこれらの数字を見る限り、アベノミクスは大きな成果を上げたように感じられる。
しかし、第2次安倍内閣を通して悪化した計数もある。公正な評価を行う上ではこれらも列挙しなくてはいけない。
①ドル建て名目GDP・日本(暦年)6.3兆ドル(12年)→5.0兆ドル(20年) 1.3兆ドル減額
②世界のGDPに占める日本の割合 8.37%(12年)→5.94%(20年)
③1人あたりGDP・日本の世界ランク(IMF) 14位(12年)→24位(20年)
④雇用者5人以上実質賃金指数 (厚労省統計)103.6(12年)→98.6(20年)
⑤45歳以上退職金額(厚労省統計) 1941万円(13年)→1788万円(18年)
⑥富裕者層(金融資産1億円以上)野村総研調査101万世帯(13年)→133万世帯(19年)
⑦生活保護世帯数(11月実績) 157万世帯(12年) →164万世帯(20年)
⑧政府の長期債務残高(年度) 972兆円(12年)→1204兆円(20年) 232兆円増加
これらの両方の計数を総合すると、アベノミクスの真実が見えてくる。以下が私の考えるアベノミクスによる日本の結果である。
①日本の国民総生産は実質8年間でほとんど増加しなかった。むしろドル建てベースでは大幅に減額し世界の中で日本の占める存在感は大幅に低下した
②名目国民総生産額で見ても年間わずかに0.9%の増加に過ぎない。この間政府の借金は232兆円、年間ベースで29兆円増加している。これは国民総生産の5%にあたる。追加財政支出の効果がほとんどなく無駄に税金が支出されていた可能性がある
③失業率は低下し就業者数は増加したが、この内訳を詳細に見ると増加の大半は女性でありまたその半分近くが非正規労働者の増加である
④正規労働者においても賃金水準はこの8年間で9.5%も大幅に低下。また退職金も減額されており人々の生活は苦しくなっていると思われる。企業収益は増加しているが円安効果による海外事業収益のかさ上げが大きく、従業員に還元されていない
⑤日本の1人当たりのGDPは世界24位にまで落ち込み、OPEC(石油輸出国機構)先進国の中でも最下位を争うところにまできている
⑥株価の上昇により富裕者層は増加したが国民全体への富の還元効果(トリクルダウン効果)は生み出さなかった。このため生活保護世帯数はわずかながら増加した
◆加速した「国民の貧困化」
こうした認識の下、アベノミクスの一つひとつの施策について検証してみたい。まず1本目の矢である「大胆な金融政策」である。デフレ対策として2%のインフレ目標を設定し、無制限の量的緩和を行うという政策、いわゆる「リフレ政策」である。ノーベル経済学賞を受賞した米国のポール・クルーグマン博士が提唱し、浜田宏一氏や岩田規久男氏などの日本の経済学者が賛同した施策で、どこの国も従来試したことのないリスクの高い金融政策である。古典的金融政策論では中央銀行の独立性が謳(うた)われ、中央銀行は金融政策を通じて物価やインフレに介入するものとされていた。
ところが、安倍元首相は日本銀行の理事の人事に介入し、日銀の政策決定を自分の意のままにしたのである。13年3月に黒田東彦(はるひこ)氏が日銀総裁に就任すると、早速「リフレ政策」が実行に移された。私はそもそも「リフレ政策」に懐疑的であった。「ニュース屋台村」の拙稿14年12月26日付「アベノミクスが日本を壊す」および16年7月1日付「英国のEU離脱が加速するアベノミクスの崩壊」で「リフレ政策」の問題点を指摘している。その要点は以下の通りである。
①金融政策そのものは景気刺激効果を生み出さない
②「リフレ政策」で株高や不動産価格の上昇が期待されるがバブルを生むだけである
③一方「リフレ政策」で円安が進行。これは輸入物価上昇につながり、国民経済にとってマイナス
④金利引き下げや量的緩和などの施策を実行済みのため、海外投機筋からの攻撃があった場合防御策が打ち出せない
結局、安倍政権当時には2%のインフレ目標は達成できず、多くのリフレ派経済学者はその旗を静かに降ろし、ほおかむりを決め込んでいる。しかし、安倍元首相による「リフレ政策」の罪は重たい。もはや輸出立国ではなくなった日本にとって円安は輸入物価の上昇につながる。ところがそれらを輸入する企業は「企業努力」という言葉を使い、消費者への販売価格に転嫁してこなかった。その「企業努力」とは労働者の賃金切り下げと非正規労働者の活用である。こうして国民は貧困への負のスパイラルに陥ってしまった。日本の貧困化については、産業競争力の低下や教育水準の低下など様々な要因が挙げられる。しかしアベノミクスによって「国民の貧困化」は加速してしまったのである。
◆小粒すぎる成長戦略
次に第2の矢である「機動的な財政政策」である。ケインズ経済学における景気浮揚効果については議論のあるところだが、少なくとも分配効果と税効果については理論上も明らかである。こうしたことから財政政策の必要性については私も認めるところである。しかし問題は二つある。第2次安倍内閣の8年間に232兆円もの借金を拡大させて財政政策を履行してきたが、果たして日本のGDP(国内総生産)を引き上げるような有効な金の使われ方がしてきただろうか? また、日本政府が野放図な財政出動を長年続けてきたため、財政崩壊の危険性が高まっていていること。これについては、「ニュース屋台村」の拙稿21年12月3日付に「増え続ける日本政府の借金!誰がこれを払うのか?」をぜひお読みいただきたい。
「アベノミクス」の最後の矢が、制度改革としての「民間投資を喚起する成長戦略」である。その意図していたものは「長寿社会から生み出される新しい成長分野の取り込み」「世界に勝てる若者の育成」「女性の活用」などであった。私自身は当初から「これらの施策だけで長年停滞状況にある日本を立ち直らせるのか?」という問題意識を持っていた。
米国とタイで行われた制度改革を再度挙げれば、①教育改革②軍事技術の民間への開放③金融制度改革④国内市場の海外への開放――などである。米国やタイが経済恐慌から抜け出せた施策に比べて、アベノミクスの成長戦略はあまりにも小粒な政策である。
しかし私たち国民にとって一番大きな問題は、これらの施策がほとんど実行されなかったということである。長寿社会をより確実にするためのバイオケミカルの研究が推進されたのであろうか? 高齢者に寄り添うためのロボット開発やAI(人工知能)の積極的な活用が推奨されてきたのであろうか? そうした新しい科学や先端技術を活用するための法制整備がなされてきたのであろうか? アベノミクスで行われてきたことはわずかに、海外からの看護従事者の受け入れだけである。こうした施策の裏側で、政府に近い縁故企業が跋扈(ばっこ)したようである。
「世界に勝てる若者の育成」についても同じである。スイスに本拠を置く国際経営開発研究所(IMD)が毎年発表する世界競争力ランキングで日本は18年以降、世界30位程度まで落ち込み、私の住むタイの後塵(こうじん)を拝している。安倍元首相が就任した12年のランキングが27位。20年が34位であるから、7カ国に追い抜かれたことになる。日本の大学トップとされる東京大学の世界ランクは世界35位(英国区アクアレリ・シモンズ社)とそれほど高くない。アジアでは中国の北京大学と清華大学が16位、シンガポール国立大学が21位、香港大学が30位と東京大学より上位にいる。安倍元首相の教育問題の取り組みで連想されるのは「森友問題」と「家計学園」の醜聞(しゅうぶん)である。認可権限と補助金で教育現場をコントロールしたこと以外に何か実のあることが行われたか? 私は知らない。
「女性の活用」についても、女性閣僚の登用や政府諮問会議などの女性委員を指名するなどのスタンドプレーはしたものの、それ以外に目立った施策を打ったとは思えない。私が初めて米国で勤務した80年の米カリフォルニア州では、女性や黒人などマイノリティーな人種の採用割合を法律で定めていた。また87年の2回目の米国勤務時には採用時に男女の区別をすることが法律で禁止されており、面接シートには男女欄が設けられていなかった。こうした法律のバックアップがあって米国では女性の活用が積極的に行われてきたのである。アベノミクスにこうした切り込み方があったであろうか? 安倍元首相は結局、成長戦略としての構造改革は全くやらなかったというのが私の見立てである。
◆今こそ冷静に総括すべき
安倍元首相が今でも誇らしげに語るアベノミクスはことほどさように、「実質的な経済効果が何もなかったどころか、世界的には日本をいよいよ先進国から転落させる瀬戸際に追い詰めた施策」だったのである。日本国民は言葉に踊らされることなく、今こそ冷静にアベノミクスを総括しなければならない。そして、痛みを伴う抜本的な制度改革に臨まなければならない。さもなければ私たち国民は近い将来、奈落の底に落ちてしまうかもしれないのである。
※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下のとおり
第207回「増え続ける日本政府の借金!誰がこれを払うのか?」(2021年12月3日)
https://www.newsyataimura.com/ozawa-77/#more-12625
第72回「英国のEU離脱で加速するアベノミクスの崩壊」(2016年7月1日)
https://www.newsyataimura.com/ozawa-83/#more-5644
第36回「アベノミクスが日本を壊す」(2014年12月26日)
https://www.newsyataimura.com/ozawa-84/#more-3598
番外編「今だからこそ問うアベノミクス(下)タイとの比較」(2013年8月23日)
https://www.newsyataimura.com/ozawa-86/#more-471
番外編「今だからこそ問うアベノミクス(上)米国との比較」(2013年8月8日)
コメントを残す