п»ї コロナ禍のタイの風景―定点観測 『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第214回 | ニュース屋台村

コロナ禍のタイの風景―定点観測
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第214回

3月 18日 2022年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

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バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住24年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

「人間は忘却の生き物である」と言われる。ドイツの心理学者であるヘルマン・エピングハウス(1850−1909)が人間の記憶力を測るため無意味な言葉を実験者に覚えさせ、時間の経過とともにどのくらい覚えているかを研究した。残念ながら私たち人間はさして記憶力がよくないようである。20分後には42%、1時間後には56%、1日後には66%の記憶が失われ、1カ月後にはわずか20%しか思い出せない。最近の脳医学では脳内の記憶システムが少しずつ解明され、「短期記憶は海馬、長期記憶は脳皮質で蓄積されること」や「長期記憶と睡眠が大きく関わっていること」などがわかってきている。

さらに人間には「積極的に記憶を消去する」メカニズムが働いているようである。生物が生きていく上で、また進化していく上で、「忘却」は重要な脳内活動なのかもしれない。「嫌な出来事をさっさと忘れ去る」ことで私たちはストレスを感じずに生きていける。一方、この「忘却」によって人々は科学的に思考することが難しくなる。過去に起こった出来事を経験として生かすことができない。また過去と比較することをしないためにその事象の要因を分析することもしない。こうした人間の弱点を補うために定期的に物事を振り返る「定点観測」は大きな意義がある。

コロナ禍でのタイの風景についてはこれまでも何回か取り上げてきた。第177回「タイに見るコロナ禍後のタイの新常態」(2020年9月18日)、第182回「新常態が定着したタイの風景と反政府デモ」(20年11月27日)、第192回「感染急拡大 タイのコロナ狂騒曲」(21年4月19日)、第201回「タイのデルタ株感染急拡大の教訓―コロナ禍の日本への提言」(21年9月10日)などである。今回は「定点観測」として、オミクロン株が拡大中のタイの風景を報告する。

◆変わりゆく観光立国

まずタイのコロナ感染状況と政府の対応策について振り返ってみたい。タイは世界有数の観光立国である。コロナが世界的に流行する前年の19年には、3980万人の外国人観光客がタイを訪れた。20年になり中国でコロナ発生が伝えられたが、1月25日の旧正月までは中国人観光客を積極的に受け入れていた。2月はコロナ感染者がほとんど確認されなかったが、3月に入り徐々に感染者が増加すると、3月23日に初めて100人の感染者を数えることとなった。タイ政府は20年3月25日に緊急事態宣言を発令。海外からの人の流入を禁止するとともに、街中にあるスーパーマーケットと薬局を除いて全ての商店、施設の閉鎖を命じた。学校や公園なども閉鎖され、人々は1カ月以上行き場を失い、自宅に引きこもった。5月に入ると段階的に制限が緩和され、時間制限などを設けながらもデパートや飲食店の営業が再開された。さらに7月からはほぼ全面的に平常な生活が送れるようになったが、海外からの人の入国は依然として実質禁止されていた。この後、20年12月20日まではタイのコロナ感染者数は1日あたり20人以下の水準で推移し、コロナ対策の優等生国となった。ところが年末近くなり、バンコク近郊の水産物市場で外国人不法労働者の集団感染が発覚すると、21年1月からコロナ感染者が発生している県の移動の中止や集会・面談の禁止などの規制が導入された。この当時、1日あたりの感染者数はピークで1000人弱まで増加したが、2月下旬にはいったん落ち着いた。こうしたことから、21年4月よりタイ人およびタイ人を配偶者に持つ外国人の入国などが14日間の隔離という条件付きながら認められるようになった。

このような状況で事態を一変させたのが、デルタ株の登場である。4月に入り海外からの入国者およびタイ国境にあるカジノの従業員経由でデルタ株の感染が確認されると、感染者数は5月に5000人を超えるほどになった。感染力が強く重症化しやすいデルタ株に対しタイ政府も4月からは順次行動規制を強め、5月からはデパートなど商業施設が閉鎖。飲食店もデリバリーだけになるなど実質的なロックダウン状態となった。それでも感染者数の増加は止まらず、8月中旬には1日あたりの感染者数が2万人を超えるまでになった。しかし8月後半になると、感染者数の減少が顕著となる。それまでタイは中国製ワクチンに頼り、かつワクチン接種も遅れていたが、6月からは英アストラゼネカや米ファイザーのワクチンを投入。積極的にワクチン接種を展開した効果が出てきたため感染者が減少したと思われる。タイ政府はまだ感染者数が1万人以上あるにもかかわらず、9月初めから人々の行動規制を緩和。レストランやデパートなどが再開され、街に活気が戻ってきた。人々の行動は活発になったたが、感染者数は21年12月末に向け減少を続け、1日あたり3000人程度になった。

またこの時期のタイの特記事項としては、観光業への回帰がある。感染拡大中の7月からプーケットにおいて隔離期間なしの外国人観光客の受け入れを開始した。プーケットは言わずと知れた観光地であり、タイ政府はいち早くこの地域でのワクチン接種を完了させた。「サンドボックス方式」と名付けられた地域隔離政策で、観光業再開の模索を始めたことになる。この後、デルタ株感染の落ち着きに伴い、外国人旅行者の隔離期間を短縮。11月には日本を含めて46カ国からの隔離措置なしの受け入れを開始した。21年に入ると、タイでもオミクロン株による感染の再拡大が始まった。感染者数も1日あたり2万人を超える水準となっている。ところがタイ政府は入国管理ならびに行動管理について極端な規制強化に動き出す気配はない。オミクロン株の弱毒性とワクチン接種の継続的な遂行状況を踏まえたうえでの判断なのだろう。

こうして見てくると、コロナウィルスへの理解の進展、ワクチン接種の進ちょくなどによってタイ政府が行動規制と入国管理のあり方を大きく変えてきたことがわかる。コロナに対する知見がほとんどなかった20年4月の1カ月間と、感染力が強く強毒性のデルタ株流行時の21年5月から8月までの4カ月間。この合わせて5カ月間は実質的なロックダウンが行われ、私たちは極めて不自由な生活を強いられた。一方、欧米のワクチンが順調に入手できるようになった20年の後半からは、海外からの人の受け入れも行われるようになり、経済重視のコロナ対策に転換した。今後、強毒性の変異株が登場する可能性もあるため油断はできないが、タイ政府は当面、現在のようなコロナ対応を行うのであろう。

◆街を出歩かなくなった高齢層

さて、こうしたコロナ禍の状況でタイの風景はどのように変わってきたのであろうか? 筆者は、拙稿第177回と第182回で、20年9月ごろのタイの風景について報告させていただいた。この時期のタイは20年4月の最初のロックダウンを終えて、人々は日常生活をわずかに取り戻していた。それでも人々の生活はコロナ前と比べて大きく変容していた。その変化は以下のとおりである。

①商品や料理の注文でデリバリーサービスの利用が一般的となる

②自宅での料理も回数が増え、スーパーマーケットが賑わう

③飲食店再開後は非日常を感じることができる高級レストランが繁盛する

④エルメスなど高級宝飾店が繁盛する

⑤巣ごもり需要から家電製品やIT関連の製品の販売が好調

⑥デリバリー需要や労働者の帰郷により、二輪車とトラックの需要が比較的堅調

あれから1年が経過して、状況はどのように変化したのであろうか? 「コロナによる人々の行動制約」と「貧富の差の拡大」に伴って発生した上述の六つの変化についてはあまり変わっていないようである。

データ調査会社デジタルリポータルが公表した「デジタル2022グローバルオーバービュー・レポート」によれば、1週間のうちにデリバリーサービスを利用するタイ人の割合(16~64歳対象)は68.3%で、比較対象国47カ国中トップである。ちなみに日本は48.2%で30位前後である。また暗号資産を保有する人の割合も日本は6.1%だが、タイは20.1%で世界1位である。タイは確実にデジタル化が進行している。すし専門店やイタリアンレストランなど高級レストランも相変わらずはやっている。

変わった点が一つあるとすれば、コロナで重症化リスクの高い高齢層が街を出歩かなくなったことだ。高級レストランには比較的若い人たちが押しかけている。金持ちはコロナによっていよいよ金持ちになっているようだ。バンコクの不動産市場は全くと言っていいほど動いていないが、超高級コンドミニアムだけはこうした金持ち層によって取引が行われていると聞いた。

以上見てきたようにコロナによって人々の行動変容が起こり、タイの風景は既に1年前には大きく変化していた。こうした現象については現在もさして変わっていない。

◆中韓の攻勢と日本の地盤沈下

しかしこれ以外に、この1年で大きく動いたことがある。それは各種原材料の品不足と地球温暖化への対応である。主に米国の港湾労働者とトラックドライバー不足に起因するコンテナ不足問題は、タイで操業する日系企業にも大きな影響を与えている。自動車産業を中心に半導体不足が深刻化し、製造ラインに支障をきたしている。二輪車やピックアップトラックなど需要があっても製品が作れない。不足しているのは半導体ばかりではない。コンテナ船が取引量の相対的に少ないタイへの寄港を回避するため、全ての原材料が不足する事態となっている。在タイ日系企業からは「コロナ前に比べて原材料価格は3倍、輸送コストは5倍ほど高くなっている」という声を聞く。

他方、地球温暖化問題では思わぬところにも影響が出ている。地球温暖化への関心の高い欧州では、二酸化炭素排出量削減のためインバーター付きの給湯器への関心が高まっている。タイは日系エアコンメーカーの集積が進んでいるが、インバーター技術を持つ日系エアコンメーカーがこうした需要に対応し始めている。またSDGs(国連の持続可能な開発目標)への対応から、工場の屋根へのソーラーパネルの設置が相次いでいる。コロナ禍で操業が落ち着いている現在、在タイ日系企業がSDGsへの取り組みを積極的に行っていることは望ましいことである。

地球温暖化問題では不安材料もある。それはEV(電気自動車)を使った中国自動車会社のタイ市場への攻勢である。タイには既に上海汽車グループのMG社と長城汽車(GWM)の2社が進出済みである。これら2社は、EV化を積極的に進めたいタイ政府の意向をくみ、EVの現地生産を表明済みである。こうした動きをタイのマスコミは積極的に報道する。これに対し日系自動車メーカーはEV化の動きに反対しているように受け止められている。中国の最大手の自動車会社もタイへの進出を検討中のようである。タイ人の日本を見る目が変わってこないか、心配である。

韓国の存在感が増していることも懸念材料の一つである。日本政府の「クールジャパン」が大コケする中、韓国の官民一体によるコンテンツの売り込みは着実に地歩を固めてきている。BTSに代表される音楽、韓流映画、ゲームなどを通して確実にタイ人の心をつかんできている。美容院を訪れる若いタイ人女性からは「韓国ではやっている髪形にしてほしい」という要望が多いそうである。コロナ禍で自分に有利な商品で市場にアプローチしてくる中国と韓国。タイにおける日本の地盤沈下もコロナ禍の一つの風景なのかもしれない。

※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り

第201回「タイのデルタ株感染急拡大の教訓―コロナ禍の日本への提言」(2021年9月10日)

https://www.newsyataimura.com/ozawa-72/#more-12214

第192回「感染急拡大 タイのコロナ狂騒曲」(21年4月19日)

https://www.newsyataimura.com/ozawa-58/#more-11856

第182回「新常態が定着したタイの風景と反政府デモ」(20年11月27日)

https://www.newsyataimura.com/ozawa-44/#more-11360

第177回「タイに見るコロナ禍後のタイの新常態」(20年9月18日)

https://www.newsyataimura.com/ozawa-38/#more-11152

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