山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
前稿「表現の場としての存在の不在/不在の存在」(2022年2月16日付、WHAT^第41回)に引き続き、「個人と組織が『自然』な状態にある」ことは、どういう意味なのかについて考えたい。逆に考えれば、「個人と組織が『自然』な状態にない」場合、個人と組織がとても不自然な法律によって存在を規制されている場合は、政治や宗教によって、何でもありうるという、意味不明な社会状況が想定される。ニュートン力学の自然観では、自然な状態は安定で、合理的な必然性がある状態と考えられていた。ダーウィンの進化論的な自然観や、量子力学の自然観は、確率的な変化を内包していて、完全に客観的な存在としての自然は近似的な素描となった。それでも、自然な状態は、人びとの恣意(しい)的な主観性とは別の存在として、人びとの共通言語としての役割を担い、現在でも(AI〈人工知能〉技術以前では)言語の自然な意味の土台となっている。 記事全文>>