山口行治(やまぐち・ゆきはる)

晴耕雪読、雪解けを待つ読書の季節だ。堀田善衛の『ミシェル・城館の人 第3部 精神の祝祭』は、28年前に購入して、最初の10ページで挫折していた。第1部から読むべきだったけれども、それでも今の年齢にならないと楽しめなかっただろう。現在は3部すべて読み終えて、原本となるミシェル・ド・モンテーニュのエセー(随想録)の半分、第2巻まで読み進んだ。堀田善衛のガイドが無ければ、エセーをこれほど楽しめたとは思えない。モンテーニュは自分自身を「観察」するという、前代未聞の文学的実験を行った。「観察」は、文学者である堀田善衛が見ぬいたエセーの真髄だと思う。モンテーニュ自身の「観察」から、16世紀フランスの光景が生き生きと伝わってくるから不思議だ。第2巻中段の難所「レイモン・スボンの弁護」という長大な宗教論に、「私が猫と戯れているとき、もしかすると、猫のほうこそ私を相手に暇つぶしをしているのではないだろうか」という、時代を超えた観察がまぎれこむ。
晴耕雪読『ミシェル・城館の人 第3部 精神の祝祭』堀田善衛、集英社1994年
記事全文>>