山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
岸田文雄首相は6月13日の記者会見で「解散」を問われ「会期末の状況を見極めて判断する」と述べ、ふくみ笑いを残して立ち去った。さわさわと立ち始めていた解散風は一気に勢いを増したが、首相は3日後「解散は考えていない」と、風をかき消した。解散の権限は「首相にある」というのが今の憲法解釈だが、首相の一存で、いつでも議会を解散できる、というのは日本ぐらいである。国民に選ばれた衆議院議員全員を解職し、選挙をやり直す。議会制民主主義の根幹に関わる重い判断を、なんの条件も付けずに与えているのは問題ではないか。
◆「首相の解散権」認める日本と英国に大きな違い
「解散は含み笑いの風吹かし」(埼玉県 山田浩二)。6月15日付の「朝日川柳」に載った一句だが「首相は解散権を弄(もてあそ)んだ」という批判が上がっている。憲法に明記されてはいない「解散権」を首相に認めてきた国会慣行を問い直すべきである。
解散は、日本国憲法の「7条」と「69条」に書かれている。69条は「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」とある。
衆議院で「不信任」となった内閣は、国会を解散して国民に信を問うか、総辞職して責任を取るしかない。解散は「内閣不信任」によってなされるという規定だ。
憲法7条には天皇による国事行為が書かれている。「内閣の助言と承認によって国民のために行う国事行為」の一つに「衆議院を解散すること」(3項)が挙げられている。天皇は政治を行わない、国事行為は形式的なものだから、解散は内閣の助言と承認でなされる、つまり内閣に解散の権限がある、という解釈である。
憲法が制定されたころ、解散は内閣不信任とセットで考えられていた。69条解散だけ、だった。変わったのが1952年、吉田内閣が仕掛けた「抜き打ち解散」だ。前年にサンフランシスコ講和条約が締結され、GHQ(連合国軍総司令部)による占領が終わった。公職追放されていた鳩山一郎らが政界に復帰、国会では鳩山派の議員が吉田首相に辞任を要求し、政局は混乱していた。吉田は鳩山派の選挙準備が整っていないうちに総選挙をしようと、憲法7条を根拠に解散に打って出た。占領下は「解散は69条で」がGHQの方針だった。占領が終わり、時の権力者が解釈を変え、天皇の国事行為の規定を盾に押し通した。長い保守政権が続き、「解散は首相の伝家の宝刀」という慣例が根付いた。
吉田がお手本としたのは議会制民主主義の先進国・英国だった。内閣に自由な解散権を認められている。だが英国では、政権が有利なタイミングでの解散ができるのはフェアでない、という批判から、2011年に首相の解散権を封じる「議会任期固定法」が成立した。それがまたひっくり返る。英国のEU(欧州連合)離脱をめぐって国会が十分な機能しなかった、という反省から「解散・総選挙によって国民の信を問う」という機能を取り戻そうと、同法は廃止された。首相の解散権は復活したが、政治に民意を反映させることの大切さが確認された。英国は解散の意味を問い直しながら制度を変えてきた。解散権を首相の武器にすることは今も社会的に認められていない。
「首相の解散権」を認めているのは日本と英国ぐらいだが、大きな違いがある。解散は国の針路について民意を問うもの、と考える英国と、「伝家の宝刀」すなわち首相の武器とされている日本。政治の成熟度に、天と地の開きがある。
◆本来なら解散して国民に信を問うべきだ
無謀な戦争に敗れ、占領が終わったのをいいことに、政敵の準備が整わないうちに総選挙を、と「解散権」を私益に利用した吉田茂と、野党の選挙準備が整っていないうちに解散だ、と風を吹かせた岸田文雄。この70年間、日本の政治に前進がなかったことを表している。
本来なら、岸田首相は、解散して国民に信を問う場面だと私は思う。政権は昨年来、安全保障政策の大転換を進めているからだ。専守防衛を空文化し、米国と一緒に中国を標的にするミサイル網を構築する。財政難にもかかわらず防衛予算は5年かけて倍増だ。世界第3位の軍事大国にする政策だが、これでいいか、と国民に問いかけるのが、政治家の務めだろう。
ところが装備・兵器の必要性・有用性は示されず、財源も増税なのか国債なのか明らかにしていない。軍備拡大の中身についても、元自衛艦隊司令官の香田洋二氏は「身の丈を超えている。子どもの思いつきかと疑うほどだ」と批判している。米軍のアジア戦略に組み込まれ、対米従属の深化や中国との外交摩擦など日本の針路の関わる重大な問題が待ち受けている。政府は不都合な課題をひたすら隠し、既成事実だけを積み重ねようとしている。国民に丁寧な説明をしたうえで、民意を問う局面ではないのか。
◆「不支持拡大」、形勢不利で解散棚上げ
「解散回避発言」の直後、報道各社による世論調査の結果が相次いで明らかになった。どの調査でも支持率は低下、ほとんどの調査で「不支持」が「支持」を上回った。
広島サミットで被爆地にG7(主要7カ国)首脳を集め、浮力が付いた支持率は、秘書官を務める長男の失態、強引に進めたマイナンバーカードの混乱で暗転した。報道各社の結果を待つまでもなく、自民党独自の調査でも「不支持拡大」は顕著だった。形勢不利とみて解散を棚上げした、と見られている。
しかし、衆議院はまだ任期の半分にも達していない。なぜ急いで解散総選挙に打って出るのか。事情通によると「狙いは来年秋の自民党総裁選」という。野党は元気がなく、バラバラだ。首相の座を脅かす勢力は外になく、政敵は自民党内部にいる。目の上のタンコブは最大派閥の安倍派だが、後継者になる人物はいない。菅義偉(よしひで)前首相を後ろ盾にダークホースになりそうな河野太郎はマイナカードで躓(つまず)いた。岸田に失敗がない限り与党派閥から対立候補は出にくい。岸田が権力の座に居続けるための主戦場は総裁選で、そのためには総選挙で勝利を得ることが欠かせない。
「解散は秋、臨時国会冒頭」という説が流れている。年末になると予算編成が大詰めを迎える。政権が先送りしてきた防衛財源や少子化対策3•5兆円の内実が明らかになる。面倒なことが表に出ないうちに解散するしかない、というわけだ。
◆政治不信を蔓延させる権力者の欲
岸田政権は、防衛費も少子化対策も「国民の負担増を避ける」という方針だ。防衛財源の一部は震災復興特別所得税から流用する。臨時措置として所得税に2.1%上乗せし復興予算に充ててきた。その半分にあたる年2000億円を防衛費に回し、2037年までだった時限措置を10年以上延長する。
震災の惨禍を前に、国民は「復興のためなら」と増税を引き受けた。それがなんとミサイルや艦艇に流用される。上乗せ期間は10数年も長くなる。詐欺的手法ではないか。
防衛力強化資金という「貯金」を作り年度を越えた財源にする。原資は、外為など特別会計からの繰り入れや、都心のビルを売却した資金をプールする。しかし、こうした「税外収入」は一般会計で資金が足りない時に用立てる「国家のヘソクリ」である。それを防衛費に充当してしまえば、一般会計が足りなくなった時、国債を発行するしかない。
予算の使い残しの充当も同じだ。最近の3年間に、いざという時の備えとして国会を経ずに使える予備費が20兆円も積まれた。この使い残しを防衛財源に充てるのだが、予備費は元々、国債で賄った予算。つまり、形を変えた国債依存である。軍事費を国債で賄います、と言えば、それはあんまりだ、となるが、ワンクッションおけば、見えにくい。こざかしい財政のテクニックを使った防衛予算の仕組みが人々に知れ渡る前に、解散・総選挙に打って出ようというわけだ。
少子化対策3•5兆円も同じ構造だ。「増税は避ける」としているが、社会保険料に上乗せが検討されている。これだけでは足りず、社会保障費を削って財源にする。医療や介護予算が削減となり、行政サービスの質は悪化する。少子化対策は必要だが、社会保険料が上がり、医療や介護のサービスを低下させるのでは意味がない。
緊縮や国債依存の増加の根元にあるのが、5年間で43兆円という防衛予算の大盤振る舞いである。これがどれほど財政を悪化させ、国民生活を圧迫するか、まだ国民はピンと来ていない。解散を急ぐ理由はこのあたりにありそうだ。
総裁選に勝つため、政策のボロが出る前に、野党の準備が整っていないうちに――。どれも権力者の欲が絡む。都合のいいタイミングで解散し「国民の信を得た」とするのはフェアとは言えない。こんな政治は民意を反映しない。政治不信を蔓延(まんえん)させ、無関心を増幅させるばかりだろう。権力者に有利な「身勝手な解散」を封じることは、政治改革の第一歩である。(文中敬称略)
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