山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
日本銀行の第32代総裁・植田和男の評価が揺れている。前任の黒田東彦(はるひこ)総裁は異次元の金融緩和で経済活性化を狙ったが果たせず、途方もない歪(ゆが)みを市場に残した。「黒田は自ら手を染めた政策を修正することを嫌った。やれるのは新しい総裁だ」と、市場は植田に期待した。だが、就任から100日近くが経っても、植田にその意欲が感じられない。「本気で金融政策の正常化をする気があるのか」と疑いの目が注がれている。総裁は臆病者。そんな声さえ聞かれる。
◆「負の遺産」という黒田日銀の「置き土産」
植田総裁の「すべきこと」を語るには、黒田前総裁が残した「負の遺産」を避けて通れない。黒田は安倍晋三首相(当時)が掲げた「リフレ政策」に賛同して総裁に任命された。リフレ政策は、デフレは通貨が足らないから起こるので、日銀がマネーをまき散らせば景気はよくなる、という考えだ。いわば、デフレの責任は日銀にある、これまで不健全とされてきたインフレ政策を思い切り採れ、という主張だった。黒田の前任、白川方明(まさあき)総裁は「そんな単純な問題ではない」とはねつけたが、黒田はリフレ政策を請け負うことで総裁の座を獲得した。「年に60兆円の日銀マネーを市場に注入し、デフレから抜け出す」と宣言。日銀が国債を銀行から買い取って資金を注入する。「2年で物価上昇2%という日本経済を作り出す」という触れ込みだった。
日銀が大量の資金を放出するなら「これからはインフレだ」という空気が広がり、「物価が上がる前にカネを使おう」と消費が盛り上がる、という筋書きだった。ところが、カネをばらまいてもインフレ心理は広がらなかった。黒田は、ばらまくカネを年60兆円から80兆円に拡大したが、効果はなかった。「2年で2%」という目標は絵に描いたモチで終わった。
日銀は国債の買い取り機関となり、発行済み国債の半分以上を日銀が抱え込むという事態になった。日銀がお札を刷って、政府の借金をせっせと埋める。これまでタブーとされてきた不健全な財政が常態化した。日銀が市場からせっせと国債を買い上げるので国債金利(長期金利)は限りなくゼロに近づき、政府は借金の重荷を感じることなく放漫財政に拍車を掛けた。国債だけではない。上場株式を日銀は買い支え、東証株の最大の株主は日銀になった。債券市場も株式も、日銀の「管理相場」となり、自由な売買で価格が決まるという市場機能が損なわれた。
しかしながら、日銀が輪転機を回して国債や株式を買い支える、という「打ち出の小槌(づち)財政」はいつまでも続けられない。黒田も最初は「2年間」と区切りをつけていた。短期決戦だから、不健全な政策も時には劇薬として効くかもしれない、という危うい政策だった。それがうまくいかず、ずるずる延長され、規模は拡張され、やめるにやめられなくなった。それが黒田日銀の「置き土産」である。
◆「金融正常化」という難事業
植田日銀の使命は、黒田路線すなわち異次元の金融緩和に終止符を打って、金融を正常化すること。これに尽きる。
ところが「異次元緩和」は今なお続いている。物価上昇が社会問題になっても、インフレ誘導の政策は継続されている。分かりやすいのが長期金利だ。日銀は毎月「兆円単位」の資金で市場から国債を買い上げている。その結果、指標とされる10年もの国債の市場金利は0.5%近辺にとどまっている。
日銀が異次元緩和(国債の買い上げ)をやめれば、金利は一気に跳ね上がるだろう。植田はそれを恐れているらしい。
金利が上昇に転ずれば、新規に発行する国債の金利が上がる。利払い負担がかさみ財政は打撃を受ける。日銀も困ったことになる。買い込んでしまった550兆円もの国債が値下がりして評価損が発生する。日銀は債務超過になる恐れさえある。銀行の債務超過は破綻(はたん)を意味する。
日銀による買い支えがなくなれば、国債価格も株価も不動産価格にも激震が走りかねない。黒田日銀の10年間で日本経済は、日銀マネーにどっぷり漬かった危うい構造になってしまった。
黒田の失敗は、結果を出せなかっただけでなく、日銀財務と政府財政、そして市場に、いつ噴き出すかわからない巨大なマグマをため込んでしまった。
この処理を任されたのが、植田和男だ。学者として黒田日銀に懐疑的な意見を表明しており、軌道修正を託された就任と市場は受け止めた。
後始末なら、やることははっきりしている。まず、長期金利を低く抑え込んでいる債券市場への介入をやめること。価格形成を自由な売買に任せる、という当たり前の市場に戻す。現在、0.5%とされている10年債の金利の「許容範囲」なるものを廃止する。そうすれば金利は徐々に上昇し、市場実勢を反映する水準に収まるだろう。
次は日銀が決める政策金利だ。アメリカでもEU(欧州連合)でも中央銀行は昨年来、段階的に政策金利を上げてきた。FRB(米連邦準備制度理事会)の政策金利は5.25〜5.5%、ECB(欧州中央銀行)の政策金利は3.75%まで上がった。日銀はまだマイナス0.1%、上げる気配は全くない。「金融政策の正常化」を目指すなら、マイナス金利をやめ、欧米のように段階的に引き上げることが必要になる。
金利を上下させて景気を冷やしたり刺激したりする機能を日銀が取り戻すことが「正常化」である。金利だけではない。株式市場の価格形成を歪めている上場有価証券投資信託(ETF=東証株価指数を投資信託に組成した金融商品)の買い上げをやめ、徐々に売っていくこと。同様に不動産市場を買い支えてきたJ-REIT(優良不動産を指数化した金融商品)の購入を中止することも必要だろう。
平たく言えば、日銀がお札を刷りまくって国債を無制限に買い、株式や不動産まで買いまくった「日銀の大盤振る舞い」におさらばし、バラまいてきた日銀マネーを徐々に回収することが「金融の正常化」である。
そんなことを始めたら、「日銀による市場の買い支え」が瓦解(がかい)し、国債や株が暴落する恐れがあるという不安が根強い。植田日銀は、投資家が動揺して「投げ売り」などパニックを起こさないよう慎重にことを進めなければならない。
金融正常化とは、明確な方針と信頼感をベースに、市場との対話を周到に行う、ということである。言うのは簡単だが、相当な難事業である。
◆「政治との折り合い」も警戒する植田日銀
植田総裁は、その任に耐えられるか。就任前は黒田日銀に懐疑的で、金融正常化が必要と考える経済学者と見られていた。ところが就任した途端、「金融緩和路線は継続する」と語るなど、正常化への姿勢が曖昧(あいまい)になった。市場は面食らいながらも「金融大転換は慎重に運ばなければ失敗する。期待が先走ることにブレーキをかけているのだろう」と理解を示した。しかし、3か月が経っても、腰の引けた姿勢は変わらない。
そんな中で7月28日に「長期金利上昇容認」という政策変更がなされた。イールドカーブコントロール(YCC)と呼ばれる日銀による市場操作を緩める、という決定である。
「植田は正常化へと動き出したのか」と市場は驚きをもって反応したが、植田は記者会見で「正常化へ歩み出す動きではない」と自ら否定した。「金融緩和の持続性を高めるため」にやった措置である、と強調した。週が明けると「銀行からの国債買い入れ」をこれ見よがしに行った。「黒田路線を継承しています」と市場にアピールしたのである。「金融正常化」と受け取られないよう、弁解しまくっている。
「植田は、頭はいいが度胸がない」「正常化に伴うリスクに怖気づいた」という「植田臆病者説」がじわじわと広がっている。
期待感が先行すると「金利はこれから上がる(国債価格は下落する)」という観測が急拡大し、国債の投げ売りが始まりかねない。器の中で沸騰したお湯に、いきなり冷水を注げばコップが割れてしまうように、日銀マネーで支えられた市場をいきなり正常化すれば市場は大混乱する。
市場の過度な反応を恐れ「これは正常化ではありません。金融緩和を順調に進めるための微調整です」と言っているように思えるが、長期金利への「介入中止」(YCC廃止)は、正常化の全体像からみると「序の口」に過ぎない。この程度のことで動揺するなら、「国債買い上げ中止」などとても踏み切れないだろう。
実は日銀が警戒しているのは「市場の動揺」だけではない。「政治との折り合い」が問題視されている。「正常化」には自民党内部に抵抗が強い。アベノミクスの旗を振った安倍元首相に連なる「積極財政派」が阻止の構えを崩していない。植田総裁が就任する時も旧安倍派の有力者は「アベノミクス継続」を強く求め、植田も「金融緩和を継続する」と言わざるを得なかった。
「植田は、忠臣蔵の討ち入り前の大石内蔵助(くらのすけ)ではないか」という見立てがある。「吉良(きら)邸討ち入りなど考えてもいません」という態度で世間を欺きながら、着々と“その日”に備えた内蔵助のように、「正常化などめっそうもない」と装いながら、手順を踏んで進めていく。長期金利の上昇を1%まで認めたのは、方向としては間違いなく正常化路線である。
植田は大石内蔵助のような策士なのか、それともタダの臆病者なのか。
吉良邸討ち入りで決着がついた「あだ討ち」とは異なり、金融の正常化は「1回限りでの決着」などない。YCC解除、国債買い上げ停止、政策金利引き上げなど、リスク覚悟の決断を繰り返し迫る障害がハードル競走のように並んでいる。植田が策士だとしても、どこかで「正常化します」と正体を現すことになるだろう。その時、市場が納得するか。それは総裁が信頼されているか、で決まる。本心を隠して「黒田緩和の継承者」を装うことが、果たして信頼につながるだろうか。
正常化への道は、市場の混乱や政治との軋轢(あつれき)が避けられない。返り血を浴びてでも前に進む覚悟が植田にあるのか。なければ、ただの臆病だろう。遠からず真贋(しんがん)が試される局面が訪れる。(文中敬称略)
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