山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
「東証 史上最高値更新 バブル期以来」。携帯に飛び込んできた速報に、苦い記憶が蘇った。34年前のロンドン。駐在2年目の年末だった。東京証券取引所の大納会は最高値で一年を終えた。それがニュースとは思わなかった。日経平均株価は遠からずに4万円の大台に乗る、という期待さえあった。1989年の大納会の3万8915円は途中経過の一瞬であり、まさか34年も最高値であり続けるとは、誰も思っていなかった。
驚いたのは2日後だった。衛星放送が実用化され、ロンドンでも日本のテレビ放送が見られるようになった。何人かの特派員が集まって大みそか、レコード大賞の発表を待った。その時、日本から届いた映像が異様だった。「受賞は、歌うポンポコリン!!」。ピーヒャラ、ピーヒャラ、パッパパラパラ……。サイケデリックな衣装の奏者がギターをかかえ、わけがわからない歌詞を囃(はや)し立てている。これはなんだ、今の日本はポンポコリン、これが受けているのか。鳥肌が立つような違和感を覚えた。
◆ポンポコリンの風、欧州にも
欧州ではベルリンの壁が崩壊し、東欧の体制転換が始まった。ソ連(当時)ではゴルバチョフが首相になり、雪解けへと動く。EC(欧州共同体)は経済から国境を取り払う市場統合へと向かう。中国では天安門で事件が起き、騒然としていた。世界が音を立てて動き、ガラガラと変わる時代に人々が対峙(たいじ)している時、日本はなぜ「ピーヒャラ、ピーヒャラ」なのか。
思えば、ポンポコリンの風は欧州にも届いていた。ロンドン市場では日本企業が、高い株価を背景に転換社債を発行し、資金を集めていた。金融緩和で膨れ上がったジャパンマネーが流れ込み、市場を潤す。ハイドパークに面する高級ホテルでは連日、起債や増資の調印式が行われ、夜は社長や頭取が豪華なパーティーを開く。大英博物館の古代展示場を借り切って、すしや焼き鳥の屋台を並べ、東京から来た社長らをうならせる支店長もいた。翌日はクルマを連ね、シェークスピアの故郷などを訪れ、帰りがけに高級ブランドのカシミヤやスカーフを棚ごと買いまくる。爆買い日本人に眉をひそめつつ、店員は慇懃(いんぎん)な笑顔で対応していた。
私の知人・友人も旅行や仕事で頻繁に訪れた。日本土産でうれしかったのは「不動産のチラシ」だった。「これお宅と同じタイプでしょ。1億円になっていますよ」。千葉県浦安の公団住宅にくらむような値がついたチラシを見て、「よし、今日は中華街で思いっきり食べましょう」と気分が大きくなったりした。
◆上場企業が儲かっても庶民は窮乏
幸か不幸かバブル真っ盛りの日本には居なかったが、余波はロンドン(1988年〜91年)でも感じられた。あの異様な熱気と今を比べると、複雑な思いだ。日経平均はバブルピーク時の水準を回復したが、株式市場の値動きと日本の経済実態には相当な落差がある。
株価を押し上げる最大の要因は「マイナス金利」を維持している日銀の異次元金融緩和である。その結果起こった円安で日本の株価に割安感が出て、海外投資家が買いに動いている。
そこに重なったのが、中国の異変。不動産バブルが崩壊し、中国へ向かっていた資金が、投資先を求め日本に流れ込んだ。
誘引は上場企業の好決算。2024年3月期の純利益は3期連続で過去最高を更新するという。コロナ禍による経済活動の萎縮から抜け出し、製品値上げや円安が収益を押し上げている。史上最高の利益を上げる企業が続出した。
相場上昇の口実は「半導体ブーム」。人工知能(AI)・生成AIなどで半導体需要が急速に高まると囃し、この分野を得意とする米国のエヌビィデアや英国のアームなど人気銘柄が相場を牽引(けんいん)する。株式市場で見る限り、経済は活況を呈している。
だが、現実の日本経済はどうか。国内総生産(GDP)は落ち込んでいる。10−12月は年率換算0・4%減、7−9月は2・1%減、四半期GDPが二期連続してマイナスになると「景気後退」とされる。実質賃金は2023年、2・5%のマイナスだった。
岸田政権は「賃金はバブル以来の上昇を達成した」というが、それを上回る物価上昇で人々の暮らしは貧しくなっている。実質的な所得が減っているから消費は落ち込み、GDPは縮小する。上場企業が儲かっても、庶民は窮乏している。
立場の強い大企業は物価上昇を逆手にとって価格引き上げに成功した。海外で事業をする大企業はドルなど外貨収入が円安で膨張し、決算を押し上げた。だが、国内市場に頼る中小企業にとって円安は原材料コストの上昇であり、収益を圧迫する。納入先大企業との力関係で値上げは抑えられ、コストを転化できない。
GDPが落ち込み、実質賃金が低下している中で上場企業が空前の利益を上げているのは、犠牲になっている弱小企業や労働者がいる、ということだ。
◆今や経済先進国とはいえない日本
日本は34年かけて上場企業の株価をバブル期の水準に戻した。指標となる「日経225」(東京証券取引所のプライム市場に上場する約1800銘柄の中から選ばれた225銘柄の株価をもとに算出される指数)は上場企業の中でも「上澄み」のような優良銘柄だ。日本経済を投影しているとは言い難い。経済全体に格差が広がっている中で「日本の勝ち組」の動向を日経225は映し出している。つまり、日本は「勝ち組」でもバブル期の水準に復帰するのに34年かかった。その間、米国の株価は18倍に値上がりした。ドイツでも5倍。日本は取り残されている。
凋落(ちょうらく)ぶりを分かりやすく示すのが、主要企業株価の時価総額だ。1989年では世界の時価総額ランキングのベスト10で日本企業は8社を占めていた。
1位NTT、2位日本興業銀行、3位住友銀行、4位富士銀行、5位第一勧業銀行。6位IBM。7位三菱銀行、8位エクソン、9位東京電力、10位ロイヤルダッチシェル。11位にトヨタ自動車がいた。
34年経ち、現在のベスト10は、1位マイクロソフト、2位アップル、3位サウジアラムコ、4位アルファベット、5位アマゾン、6位エヌビディア、7位メタ、8位バークシャーハサウェイ、9位イーライリリー、10 位テスラである。9社がアメリカ企業。日本は跡形もなく、トヨタ自動車が35位だ。
かつて世界の株式市場に君臨した日本の銀行はバブル崩壊で吹っ飛び、東電は福島第一原発事故で消えた。世界最大の自動車メーカーであるトヨタでさえ、テスラに遠く及ばない。
1989年当時、世界のトップクラスにあった日本の1人当たりGDPや産業競争力は、それぞれ32位、35位(いずれも2022年)に後退した。今や日本は経済で先進国とはいえない状態になっている。
株式市場は儲け先を探す投資家たちのマネーゲームの舞台となっている。円安と半導体ブームを囃して投機資金が流れ込んでいるが、日本経済や産業の強さが買われているわけではない。株が上がったから民の暮らしが豊かになるわけでもない。東証株価がバブルの水準に復帰しても、人々の気分はピーヒャラ・ピーヒャラに、なりようがない。
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