山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
かつての学友が50数年ぶりに集まった。それぞれ二十歳(ハタチ)の青春は大学紛争のさなかだった。爪痕(つめあと)をキャンパスや自らの内心に残し、就職して企業戦士となった者、バブルに踊り不良債権の処理にまみれた銀行員、大学に留まり医局改革で孤立した医学生……。道はそれぞれ違ったが、みな10年ほど前に現役を終え、いまや後期高齢者である。「終活」に話題が及ぶと、1人が言った。「あの世に行く前に、今の世の中に、落とし前をつけたい」
吉野源三郎の『君たちはどう生きるのか』は、若者に「生きる意味」を正面から問いかける著作として話題になった。終活を意識する高齢者にとって「君たちはどう生きたか」が人生の意味を考える問いかけだろう。
◆「団塊の世代」は学生運動の世代
「団塊の世代」の多くは1960年代後半、なんらかの形で学生運動に加わった。ベトナム戦争や公害問題をきっかけに、政治に関心を持ち「異議を申し立て」をすることが自分たちの務め、と感じた若者たちだ。日本だけではない。アメリカやフランスをはじめ先進国のほとんどで「反戦」の狼煙(のろし)が上がり、権力者への反抗が大きなうねりとなった。
西ドイツを抜いて日本がGDP(国内総生産)世界第2位となった1968年、全国の主要大学で学生によってバリケード封鎖が広がり、東大が入試を断念するなど大学機能は麻痺(まひ)した。しかし東大の安田講堂に閉じこもった学生が機動隊に排除された1969年を境に「正常化」は進み、大阪で万博が開催された高度成長のピークに若者たちの熱い季節は終わった。
その後、追い詰められた過激派が「仲間殺し」や「爆破事件」に走り、運動は急速に支持を失う。学生たちはビートルズ風の長髪を切って就職し、社会の荒波にのみ込まれていった。
「戦争が終わって、僕らは生まれた、戦争知らずに、僕らは育った」という歌詞から始まる、北山修の「戦争を知らない子どもたち」は、団塊のベビーブーマーを象徴している。平和憲法が制定されたころに生まれ、戦後民主主義の教育を受けた。国家より個人・人権が尊重され、人は平等で、自己主張と話し合いが問題解決の基本と教えられた。
メイド・イン・ジャパンが世界を席巻し始めた頃、社会に出たベビーブーマーたちは、学生時代の価値観を捨ててサラリーマンとなった。競争に揉(も)まれて育っただけに、会社の内外の競争に抵抗は少なかった。学生運動で指導的役割を果たした人物ほど、業績の向上や企業の成長に手応えを感じ、「24時間働けますか」という過酷な労働環境も厭(いと)わなかった。この競争から女性は排除された。男たちは、会社や業界という小さな集団の中で自分の順位を気にする企業人として、人生の大事な時間を過ごした。
◆いま「終活」と向き合う後期高齢者
半世紀が過ぎ、段階の世代は後期高齢者となった。退職後10年という歳月は、社会人としての自分を考え直す時間でもあった。会社からもらった「元の肩書」は急速に意味を失った。企業社会の垢(あか)を落とし、少しずつ「正気」を取り戻す人が出てきたのである。
ウクライナの戦争は長引き、パレスチナ自治区のガザ地区では空爆で無抵抗の人たちが毎日殺されている。ほとんどが女性や子供たちだ。国家の暴虐に「反戦」「パレスチナに平和を」と叫ぶ声が世界で鳴り響く。アメリカや欧州では大学が「反戦の拠点」となった。パレスチナで愚行を繰り返すイスラエルとの関係を断て、と学生は大学当局に迫っている。
日本の大学では、目立った動きはまだ見えない。「立て看板」は大学が禁止し、素直に応じる学生たちは、政治的主張をする術(すべ)を知らないのかもしれない。そうした「今の若者」より、敏感に世界の風を感ずる「昔の若者」が少なからずいても、不思議ではない。
あの頃は「ベトナムに平和を」だった。「戦争反対」はいうまでもない。後期高齢者とは「社会のお荷物」とみなされるのに等しい。生産に携わるわけでもなく、医療や介護などが必要となり、税金を食い、若い人の手を煩わせる厄介者。そんな視線さえ注がれ、「集団自決を!」とまで言われる存在である。
その一方で、日本が成長していた時代に育った彼らは、ささやかながら貯蓄があり、人によっては自由に出歩ける体力がまだ残り、たっぷりした時間もある。「こうした時間はあと何年あるか」が団塊の世代の関心となっている。人生の手仕舞い、すなわち「終活」と向き合うことになる。
企業戦士として晩年に、バブル崩壊に遭遇した。一本調子の成長が砕け散り、ジャパン・アズ・ナンバーワンと囃(はや)されていた足元が崩れ、成長が止まり、賃金は上がらず、かつての大企業は輝きを失った。入社した時、ピカピカだった会社が、退職時にはボロボロというところも珍しくない。おごれる者は久しからず、ただ春の夜の夢のごとし、である。
◆日本はいつのまにか戦争に備える国に
「私たちはどう生きてきたのか?」。人生を振り返れば、いまの世の中が見えてくる。経済規模は大きくなり、技術はどんどん進歩し、便利にはなった。しかし、人々は幸せになったのか。企業の中で目先だけを見ている間に、社会はどうなったのか。
ウクライナやパレスチナの現実は、視野の外にあった国際政治の現実を見せつけた。遠い彼方にある国の話ではない。すぐ隣にある台湾海峡を巡る緊張が高まっている。米国と中国がにらみ合い、何かのきっかけで武力衝突が起これば、日本が巻き込まれる恐れさえある。
「戦争を知らない子どもたち」が老人になり、日本はいつのまにか戦争に備える国になってしまった。
子育ても、介護も、貧困対策も十分な予算措置ができないこの国が、軍事費は4年で倍増する。中国と対峙(たいじ)する米軍を補強するための措置である。
先だって岸田文雄首相が国賓待遇でワシントンに招かれ、バイデン大統領と日米首脳会談が行われた。米議会上下院合同会議で首相は「控えめなパートナーだった日本は、いまやグローバルパートナーとしてアメリカに寄り添う」と宣言し、万雷の拍手を浴びた。
「平和国家だった日本は、米国と共に戦う国になりました」と世界の真ん中で宣言したに等しい。
首脳会談では、米軍と自衛隊の「緊密な作戦連携」が合意された。事実上の一体化だ。それは自衛隊が米軍の指揮下に入るということではないのか。
軍事費が倍増され、米国兵器を爆買いし、対中ミサイル網を米軍の代わりに日本が配備する。ミサイルなど兵器を共同開発し、米軍戦闘機や戦艦の修繕やメンテナンスを日本企業が行い、民間の空港や港湾を米軍が利用できるようにする。
日本のカネ・人材・技術・施設が、米軍に差し出されることになる。かつての学生たちは原子力空母が日本の港に入ることや、ベトナムを空爆する爆撃機が沖縄からと飛び立つことに体を張って抵抗した。今や、易々(やすやす)と行われ、アメリカへの政治的従属は深まるばかりだ。外交・防衛など国家の基本方針はアメリカに握られ、長期政権を続ける自民党は「裏ガネ疑惑」にまみれ、失敗の自己修正さえできない。
◆できることは知れている後期高齢者にできること
半世紀前、高度成長のころ社会人となり、競争社会で生き残ろうと会社に身も心も捧げた世代が、老境で人生を振り返る。そこには荒涼とした風景が広がっていた。日本の衰退と政治の劣化は目を覆うばかり。終活で始末したいが、一朝に片付くことではない。団塊の世代に残された時間は少ない。
「できることは知れているが、政権交代くらいは見届けたい」という声は少なくない。学生が立ち上がったあのころのような熱気は期待できない。老人が、それぞれの場でできることはなんだろう。
「老人デモでもするか」「歩くのはしんどい。ネットを使えないか」「戦争はダメだと孫に伝えよう」
戦時中、軍隊が中国などで手を染めた残虐行為を兵たちが証言するまで、長い時間がかかった。企業戦士たちの呪縛(じゅばく)が解けるにも、まだ時間がかかるかもしれない。だが一部ではあるが、心の底に封印していた「反戦」への思いが蘇りつつあるようだ。
若者が動かないなら、年寄りが。まずは、次の総選挙で自民党を下野させたい、そのために自分はなにができるのかを考えたいという後期高齢者たち。「団塊の世代、最後の闘い」が始まるかもしれない。
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