山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
「4人刺殺の犯人」という汚名に抗して58年間、無実を訴えてきた死刑囚・袴田巌さんが10月8日、晴れて無罪の判決を勝ち取った。
姉の秀子さんら支援者の活動がなかったら、死刑が執行されていたかもしれない。「無罪判決」にホッと胸をなで下ろす気分だが、この日発表された検察トップ・畝本直美(うねもと・なおみ)検事総長の「ビデオメッセージ」にがく然とした。
検察は、判決を批判し、自らの非を認めていない。冤罪(えんざい)を生んだ司法のゆがみに目を向けず、検察組織に潜む欠陥と向き合おうという素振りさえ見えない。この頑迷な独善が続く限り、日本から冤罪事件は無くならない、と強く思った。
◆世論の激高回避へ?白旗
「畝本談話」はネットで検索できるので、ぜひご覧になっていただきたい。
骨子を紹介すると、以下のようなものだ。
・被告人(袴田さん)が有罪であることの立証は可能
・判決が「5点の衣類」を捜査機関の捏造(ねつぞう)と断じたことに強い不満
・控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容だ
・しかし袴田さんは、長期間にわたって法的に不安定な状況に置かれてきた
・そうした状況が継続することは相当でないと判断し、控訴はしない
・再審にどうしてこれほど時間がかかったのか検証したい
つまり、かみ砕いて言えば、
「今でも袴田さんが犯人だと思っている。重大な犯罪であり証拠もそろっている。有罪を立証できると考え争ってきた。判決は『捜査機関の捏造』というが、とんでもない。捜査機関が捏造などするわけがない。証拠だって示されていない。受け入れられない判決だ。本来なら控訴して争う事件だが、再審が長引き、袴田さんは高齢になっているので、控訴はしない。再審に時間がかかり過ぎたのが問題だ。どうしてこんなに長くなったか検察としても検証したい」
「高齢の袴田さんを思って、控訴を取りやめた」と言わんばかりである。
犯人であることは明らかだが、年寄りだから見逃してやる、などということを検察はこれまでやってきたのだろうか。
控訴しない理由を、新聞などでは「上級審で争っても勝ち目がない」「捜査捏造を覆す証拠が検察にはない」などと報じている。勝つ見込みのない裁判で、また時間を空費し、その間に袴田さんが亡くなったりしたら、世論は激高するだろう。そんな事態を避けるため、白旗を上げた、というのが真相ではないか。
再審無罪の決め手となったのが、犯行1年後のみそだるから発見された「血の付いた着衣」だった。袴田さんの着衣とされ、死刑が確定した公判では、これが犯行の証拠とされた。ところが、みそだるに1年漬かっていたのに、血痕は鮮烈な赤色を保っており、不自然さが後に問題になった。弁護側が実験したところ、血液は1年経つと黒褐色に変色した。証拠とされた着衣は、誰かが後になってたるに入れた、という疑惑に変わった。唯一の証拠とされた「自供」も平均12時間に及ぶ過酷な取り調べが問題になった。
◆検察組織の総点検・改革が急務
判決は「捜査には『三つの捏造』がある」と断定している。
「ほかの証拠で認められる事実関係によっては、被告を犯人とは認められない」と言い切った。
三つの捏造とは、①自白調書②みそだるから見つかった5着の衣服③袴田さんの自宅から見つかったズボンの端切れ――。
自白については「肉体的・精神的苦痛を与えて供述を強いる非人道的な取り調べによって獲得されたもの」と判決は指摘した。
みそだるから見つかった着衣は「5点の衣類を犯行時の着衣として捏造したのは、捜査機関の者以外に事実上想定できない」。自宅から見つかったズボンの切れ端についても「捜査機関が捜索の前に実家に持ち込んだ後に押収したと考えなければ、説明が極めて困難だ」とした。
「捜査当局による証拠捏造」という判決は、前代未聞である。誤認捜査や見込み捜査という「過ち」でなく、「意図的な捏造」ということだ。捜査当局が犯人をでっち上げた「権力の犯罪」である。
ここまで裁判所に断罪された検察のすべきことは、まず被告に謝罪することではないか。ところが畝本検事総長は、「袴田さんが犯人」との見解を変えず、捏造捜査を指摘する判決を批判した。静岡地裁ごときが、何を言うか、と言わんばかりの高姿勢である。検察庁とは、そんなに「偉い」役所なのか。
検察がなすべきは、捏造捜査が行われた経緯や問題点を洗い直し、司法の信頼を取り戻すために、組織の総点検・改革を行うことではないのか。
◆強大な捜査権の深部に息づく冤罪の因子
「捏造による捜査」は、検察にとって「あってはならないこと」である。検事総長として認めたくないことだろう。だが、捏造捜査は今や珍しいことではない。大阪地検特捜部は厚生労働省の局長だった村木厚子さんを有罪にするため、あろうことか検事がフロッピーディスクのデータを書き換えた。最近では、大河原化工機の冤罪(えんざい)事件があった。警視庁公安部が、弁録調書を偽造し、実験データの捏造までして町工場を不正輸出企業に仕立て上げようとした。
検察でも警察でも捜査に行き詰まると、偽造・捏造に走ることがある。冤罪を生む因子は強大な捜査権の深部に今も息づいている。
袴田さんは30歳で逮捕され、過酷な取り調べで「自供」を強いられ、死刑判決を受けてからは精神を病んだ。冤罪は晴れても、死刑囚として費やした人生は取り戻せない。
検察は「有罪の立証は可能」と悪あがきし、非を認めることを拒む。政治家でも逮捕できる、という自負心が身勝手な振る舞いを支えているかのようだ。この独善は危ない。自己修正できないなら、解体するしかない。
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