山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
2019年7月の参院選広島選挙区で初当選した自民党・河井案里議員派の公職選挙法違反事件の捜査が山場を迎えている。今国会の焦点の一つは、検察庁による「国会議員逮捕の許諾請求が出されるか」だった。それがどうやら見送りになりそうだ。
◆ 国会議員の「不逮捕特権」
昨年7月の選挙で、自民党本部から案里氏陣営に注ぎ込まれた政治資金1億5千万円が買収資金として使われたのかが捜査の核心だった。選挙を仕切った案里氏の夫・河井克行衆議院議員(前法相)の関与を立件するため逮捕へと踏み切るか、検察は決断を迫られている。
国会が開かれている間は、国会議員は逮捕を免れる「不逮捕特権」がある。それでも捜査に必要とされる場合は、検察庁は国会に対し「許諾請求」を行い、議長がこれを認めれば、逮捕できる。
捜査はすでに半年に及び、「現金を受け取った」と認めた地元政界の関係者は少なくない。克行氏には任意での事情聴取が行われたとの情報もあり、通常の捜査手法に従えば、逮捕し、証拠を固め、起訴に持ち込むという流れになる。
「許諾請求」が見送られても、「国会閉会を待って逮捕」という筋書きはまだ残っている。克行氏は法相を務め、菅義偉官房長官に近く、案里議員の選挙には安倍首相のテコ入れがあった。党本部からの巨額の資金が買収に使われたとなると、党総裁である首相は無縁とはいえない。
逮捕は、克行氏の議員辞職、案里氏の議員資格失効へと波及する「大事件」になる。検察が踏み込めば、安倍政権に致命的な打撃を与えることになるだろう。
◆「検察は牙を抜かれた」
安倍政権になって8年間、検察は政権を揺るがす事件を摘発したことはない。小渕優子経済産業相の公職選挙法違反疑惑、甘利明経済再生相の斡旋収賄疑惑、森友学園に対する国有地格安売却、財務省による組織的な文書改ざん……。どれも司直の手が入れば政権を窮地に追いやる事件だったが、検察はハンで押したように「不起訴」を連発した。権力者の不正にメスを入れる正義の見方という期待は薄れ、「検察は牙を抜かれた」とさえ言われていた。
「黒川問題」はそんな流れの中で起きた。検察内部で練られた検察庁のトップである検事総長人事を官邸は認めず、黒川弘務・東京高検検事長を推した。この動きは2016年から始まっていた。当時の稲田伸夫法務事務次官が、自らの後任に林真琴刑事局長を打診したところ、官邸は拒否。当時官房長だった黒川氏を指名した。事務次官は検事総長への登竜門とされる。
官邸に検察トップの人事を握られたら、捜査に支障が出るだろう。恐れた検察上層部が「黒川検事総長」を阻止しようと画策したのが、今回の伏線だ。検事総長になった稲田氏は、「居座る」ことで官邸人事の芽を摘もうとした。稲田検事総長は在任2年になる8月まで職にとどまる姿勢を示した。
東京高検検事長だった黒田氏は2020年2月に63歳の定年を迎えた。法務省は、定年になる黒川氏の後任に名古屋高検検事長の林氏を充てる人事を官邸に申し出た。ところが官邸は認めず、「黒川を辞めさせるな」と指示した、という。法務省はやむなく「高検検事長の定年延長」という奇策が編み出す。これが法律違反として問題になり、一連の騒動になったのはご存知の通りだ。
「検察への人事介入を許すな」との声がネットを駆けめぐり、最後は「賭けマージャン」が週刊誌にすっぱ抜かれ、黒川氏は辞任に追い込まれた。背後に検察による画策があったかは分からないが、結果として検察上層部の思い通りの人事となった。
◆「検察はもう目的を達成した」の見方も
こうした騒動と並行して進められていたのが、河井派の選挙違反事件の捜査だった。照準は河井夫妻。広島地検には東京地検特捜部から検事が投入され、口には出さなくても官邸を威嚇(いかく)する効果は十分だった。
振り返れば、昨年9月の内閣改造で法相に指名された河井克行氏に課せられた密命が「検事総長人事」だった。居座りを続ける稲田検事総長を早期に勇退させ、黒川氏を後任に据える。この人事構想は、菅官房長官-杉田和博官房副長官(内閣人事局長)のラインで進めていた。菅氏の「子分」である河井氏が法相に送り込まれたことで官邸・検察の決戦が始まったかに見られたが、この人事が裏目に出た。河井氏は「ウグイス嬢報酬」問題で辞任、就任3カ月で失脚した。捜査はここから始まる。
元はといえば、参院広島選挙区に無理があった。定数2の枠は、これまで自民と野党がすみ分けてきた。ところが、自民党本部は地元政界の反対を押し切って案里氏を2人目の候補として立てた。現職の溝手顕正氏は当選5回、安倍首相批判も口にする重鎮。首相にとって面白くなかったのかもしれない。広島選挙区は岸田派の領袖・岸田文雄自民党政調会長の地盤である。自民党本部は2議席独占をうたい、政治資金1億5千万円を案里氏の選対に投入した。基礎票のない新人・案里氏は得票を伸ばす手っ取り早い策として、自民党支持者の票を狙い、溝手陣営の切り崩しが始まった。党本部からの資金は地元の県議・市議などを抱き込むための工作資金となったと言われる。
溝手氏は落選し、地元の自民党組織に亀裂を残した。充満する河井夫妻への反感を追い風に捜査は進み、最終局面を迎えた。新聞報道では「検察立件の方針」がたびたび伝えられ、河井夫妻逮捕は時間の問題という空気が醸成されているが、永田町や霞が関には「検察はもう目的を達成した」と検察の軟化を予想する見方がある。
◆ 常に政治的配慮が絡む判断
検察は「法と証拠に照らし粛々と捜査する」というが、その判断は常に政治的配慮が絡む。強大な権限を持ちながらも政府組織の一部である。政権と安定した関係でありたい。一方で国民の信頼を失えば、政治家だろうと容赦しないという強権は維持できない。
「やり過ぎ」と権力の反発を買いはしないか。「政治に屈した」と国民から思われはしないか。「安倍政権の門番」と言われた黒川氏を排除した検察は、次なる一手を逡巡(しゅんじゅん)している。
局面を分けるのは政権支持率だろう。人々の心が政権から離れた、と見れば検察は逮捕へと動く。政権が踏みとどまり、権力中枢の結束は強いと見れば、「任意の取り調べ」でお茶を濁し、結論をだらだら延ばし、人々の忘却を待つ、という手もあるだろう。
ここ10年ほど、事件らしい事件を手がけていない検察にとって、河井夫妻の摘発は信頼回復の絶好のチャンスだ。現場には立件しかないという声が強いというが、上層部には「成果を取った今、さらに突っ込めば恨みを残す。政権への貸しをつくるのが得策」と判断するむきもあるという。
支持率急落、新型コロナウイルス対策での不手際、不透明な予算執行、官邸内部の不協和音……。
安倍政権の足下は決して盤石ではない。
検察は、いつでも強制捜査に着手できる態勢を取りながら、世論の動向を見守っている。
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