山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
「北方領土は我が国固有の領土」。3月7日の参議院本会議で岸田文雄首相はこう述べた。安倍政権の末期から、この見解は政府から消えていた。交渉相手をおもんぱかって、「我が国の領土だ」と言えなかったのである。
やっと「当たり前のこと」が言えるようになったのは、領土交渉を考えなくてもよくなったから。つまり、北方領土を取り戻す交渉は「終わった」ということである。
ロシアがウクライナに侵攻し、「領土交渉どころではない」という事態は、交渉当事者にとって「もっけの幸い」かもしれない。「ロシア排斥」が世界で叫ばれる今、「交渉手じまい」はやむを得ない、と誰もが考えるだろう。
だが、ロシアとの交渉をつぶさに見ると、「北方領土を取り戻す」という外交は数年前にすでに終わっている。
◆日露双方に交渉継続の裏事情
交渉の頓挫が表面化したのは、2016年12月に山口県長門市で行われた日露首脳会談である。決定的になったのは、2020年7月のロシア憲法改正。「領土割譲の禁止」が盛り込まれた。それでも交渉は続いた。日本、ロシアの双方に交渉継続を必要とする事情があったからだ。
ここで、近年の日露交渉の経過を振り返ってみよう。第2次安倍内閣が発足した後の2013年4月、モスクワで安倍・プーチンの日露首脳会談が開かれ、懸案になっていた平和条約交渉を再開することで一致した。ロシアが主要8カ国首脳会合(G8)のメンバーだったころのことである。「領土返還」が浮上したのは、なんと第1次ウクライナ紛争(2014年)がきっかけだった。
プーチン氏は、クリミア半島を占領しロシアに編入、ウクライナ東部の親ロ派の独立を支援した。欧米諸国は「暴挙」だとして対露経済制裁に動いた。そんな中で、日本は独自の外交を展開する。2016年5月、安倍首相はロシアのソチに飛んでプーチン大統領と会い、「シベリア開発」など8分野での経済協力を申し出て、北方領土の返還交渉を提案した。
世界を敵に回して窮地に立つロシアの現状を見て、「領土を取り返す絶好の機会」と安倍氏の目に映ったようだ。知恵を出したのは、総理大臣秘書官(政務担当)だった今井尚哉氏。経産官僚としてエネルギー分野でキャリアを積んだ今井氏は「エネルギー確保」「シベリア開発への参入」という経済産業省の悲願と北方領土返還を合体させる戦略を練った。
◆暗転した「政治ショー」
快く思わなかったのが、外務省とアメリカである。オバマ米大統領(当時)は制裁破りの日本に反発、ソチを訪れる安倍首相に不快の意を示した。官邸にロシア外交を頭越しにやられた外務省もおもしろくない。不協和音が形となったのが、国家安全保障局長だった外務次官OB・谷内正太郎氏の発言だった。
2016年11月、首脳会談の予備交渉としてモスクワを訪れた谷内氏は、プーチン氏側近のパトルシェフ国家安全保障会議書記と会談。「返還された島に米軍が基地を造るようなことはないな」と念を押したパトルシェフ氏に「その可能性を否定することはできない」と答え、ロシア側を唖(あ)然とさせた。
日米安保条約に基づく日米地位協定には、「合衆国は、日本国内の施設及び区域の使用を許される」と書かれている。返還された領土に米軍基地を置くことは原則的には可能だ、という「公式見解」を示したものだが、プーチン氏は直後に開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)リマ会合(ペルー)で顔を合わせた安倍氏に「これでは交渉にならない」と不満をぶちまけた。安倍氏は「あの発言は原則論を述べたまでで、返還された島に基地ができるようなことはない」と説明したが、理解を得られなかった。
谷内氏はモスクワに行く前、ワシントンを訪れて米国政府と協議している。オバマ政権はクギを刺したと思われる。日米関係を重視する外務省にとって、今井氏の「奇策」は許し難かった。官邸・経産省が組んで独走する安倍氏の対露外交にアメリカ・外務省が「待った」をかけたという構造が読み取れる。この時点で北方領土交渉は宙に浮く
2016年12月に安倍氏の選挙区の温泉旅館で行われた日露首脳会談は、期待外れの結果になった。「ロシア人の健康寿命を伸ばす医療体制支援」「先端技術や中小企業支援」「シベリアや北極海での石油・天然ガス開発」など、きらびやかなプロジェクトで飾った「協力8案件」で「北方領土が返ってくる」と盛り上げるはずだった「政治ショー」は暗転した。
プーチン氏は会談後の記者会見で、「あの地域にはロシアの軍港が二つある。その前に米軍施設ができることを想像してほしい」と不満をぶちまけた。
◆それでも「やっている感」演出
18年11月にシンガポールで行われた日露首脳会談では、「日ソ共同宣言(1956年)を基礎に平和条約交渉を加速させる」と合意された。領土返還ではなく、平和条約交渉が全面に出た。安倍氏は「返還された島に米軍基地はできない」と説明したが、ロシアは取り合わなかった。決めるのは米国だから。北方領土は遠のき、2020年のロシア憲法改正でトドメを刺される。
それでも「交渉」が続いていたのは、「看板を下ろせない」という安倍政権の事情が働いたからだ。対北朝鮮の「拉致被害者救出」のめどが立たず、窮余の一策として掲げた「領土返還」である。頓挫したことがわかっても、「やっている感」を演出する必要があった。
ロシア側は、日本が交渉継続のため差し出してきた「協力案件」は捨て難かった。2014年のウクライナ侵攻で経済制裁を受け窮地に立つロシアにとって、資金や技術を携えてにじり寄る日本は得難いパートナーである。領土を返さなくても経済協力をしてくれる日本との関係をつないでおくのは、プーチン氏にとって得策だった。
「経済協力の旨味(うまみ)」には、経産省も一枚かんでいた。「シベリア開発への参加」「資源開発の権益確保」は同省の悲願でもある。資源が豊富で発展性が高いシベリアに進出することは、「満州」に乗り出した東条英機内閣の岸信介商工大臣のころからの経産省の伝統的な戦略でもある。
「ロシアを一方的に利する」と不評を買ったが、日本の大企業は着実に成果を上げている。2018年12月には北極海で「ヤマルLNGプロジェクト」が動き出す。日揮、千代田化工、国際協力銀行(JBIC)、商船三井、ノヴァテクが参加した。 2020年7月には、砕氷LNG船が初めてヤマル基地から日本に入港した。
2019年9月、石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)、三井物産、ノヴァテクが北極LNG2に資本参加。2023年7月から生産が開始される計画だった。 2021年9月、商船三井がカムチャツカ及びムルマンスクでの「LNG積み替え事業」に参画することが決まった。カムチャツカ半島やサハリンでの風力発電など、総合商社やエンジニアリング会社の出番は目白押しとなっている。
援助資金で大手企業が海外で権益を確保する、といういつもの図式だが、領土交渉の挫折は、経産省主導の資源開発参入へと変質していった。島が返ってこなくても処女地であるシベリアや北極海の将来性を買うという経済外交が、「プーチンの暴挙」によって吹っ飛んだというのが今回の出来事だ。
◆「資源外交」も総崩れの気配
領土交渉は、ずっと前に破綻(はたん)していた。その裏で進んでいたもう一つの国策である「資源外交」も総崩れになりそうだ。ロシアからの原油輸入は引き続き認められるとしても、開発案件の継続は微妙である。
米石油大手エクソンモービルが撤退を決めた「サハリン1」と呼ばれるLNG開発には、日本政府の国策会社が資本参加している。英石油大手シェルが撤退する「サハリン2」には、三菱商事と三井物産が資本参加する。「英米資本に右へならえ!」で撤退すれば、穴を埋めるのは中国資本だろう。官民一体で手に入れたサハリンの権益を中国にやすやすと取られる、ということになる。
ウクライナからは、「血の匂いがしないか!」と経済協力を攻め立てる声が上がる。ロシアというリスクに目をつぶってきた日本の北方外交が総崩れの気配だ。
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