山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
中島敦の小説「山月記」は、若くして科挙に合格した俊才が、内面の弱さからトラになってしまう中国の逸話を下敷きにした秀作である。トラになった男は、友人に遭遇し、藪(やぶ)に身を隠して独白する。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心が私をトラにしてしまった」
自尊心は尊大になりがちで、羞恥心は臆病と重なるのが普通だが、敢えて言葉を入れ替え、「臆病な自尊心・尊大な羞恥心」とした表現に心がざわついた。社会に目を向けると、揺れ動く自尊心や羞恥心が世論を惑わし、政策を動かすことが少なからず起きている。
◆「劣情」を煽る日本の政治家
アメリカでトランプ大統領がソマリアなど紛争国出身の女性議員を念頭に、「もといた国に帰って、破綻(はたん)し犯罪まみれになった国を立て直すのを手伝ったらどうか」とこき下ろした。「偉大なアメリカにやって来たのに、アメリカに文句が」あるなら国に帰れ」という趣旨の差別発言。非難轟々(ごうごう)だが、「よく言った」と喝采(かっさい)する支持者は少なくない。
アメリカは移民によってつくられ、人種や母国はアイデンティティーにつながる。白人の国として一世風靡(ふうび)したことを誇りに思う人々は、後からやって来た有色人種にいら立っている。時代から取り残された産業に頼る貧しい白人層にその傾向が強い、という。
似た構造が「アジアの日本」にも当てはまる。「メイド・イン・ジャパン」が世界を席巻した時代、日本はアジアで突出した豊かな国だった。気前よく援助し、技術も教えてやった。それが今では経済で中国に追い越され、お家芸だった半導体やテレビで韓国サムスンの軍門に下った。1人当たりGDP(国内総生産)はシンガポールや香港に抜かれた。
目下に見ていた奴らがデカい顔をしている、という穏やかならぬ感情。反中・嫌韓の空気には「臆病な自尊心・尊大な羞恥心」が潜んでいるのではないか。
妬(ねた)み、軽蔑(けいべつ)、差別という「劣情」は抑えることが社会人のたしなみとされてきたのに、いつの間にか政治家が煽(あお)るようになった。あからさまにやっているのはトランプだが、日本政府が韓国に対して行った輸出管理の厳格化に「劣情の政治利用」が無いと言えるだろうか。
◆「安全保障上の問題」で制裁を正当化
前回(第142回)書いたが、半導体の製造に欠かせないフッ化水素系素材の輸出厳格化は、韓国に対する制裁を意識しての発動だった。
世耕弘成経済産業相は「G20までに返事を求めたが韓国政府から回答はなかったから」と説明した。日本は徴用工問題で韓国に善処を迫っていた。徴用工だけではない。慰安婦財団の解散、天皇に謝罪を求めた韓国の国会議長発言、自衛隊機に対するレーザー照射など、韓国側の対応に憤懣(ふんまん)を募らせる日本政府が「不快感」を行動で示したのが「制裁」だった。
安倍官邸の代弁者のように発言する元時事通信解説委員長の田﨑史郎氏は「官邸は韓国への制裁リストは100項目ほど用意していたが、一番効果ありそうなのはこれだとういうことになった」と、テレビ朝日のワイドショーで語っていた。
半導体素材の供給を締め上げて韓国を追い詰める。半ば脅しの強硬策である。国民の間にも「このごろの韓国はおかしい」という声があり、韓国をギャフンと言わすことが政治的に必要とされた、という。国内ではうっぷん晴らしになるだろうが、海外から見れば「日本は貿易戦争を仕掛けた」と映る。
文在寅大統領は「不当な制裁」と反発。WTO(世界貿易機関)に提訴するという。舞台がWTOに移ると面倒なことになる。韓国の半導体は世界に供給されている。生産にブレーキを駆ける制裁は、世界から反発を招きかねない。
経産省内部でも「経済制裁」には慎重論があった。国連決議もないまま経済制裁に踏み切るのは、これまで自由貿易を主張してきた従来の方針にそぐわない。官邸主導で動き出した対韓制裁は実務レベルの冷静な議論を飛び越え、「政治案件」になった。
経産省は制裁を正当化する知恵を求められた。ひねり出したのが「安全保障上の問題」である。韓国は友好国だから重要品目の輸出手続きを簡素化してきたが、信頼できない国になったから他国並みに厳格な審査を行う。制裁ではなく「通常の基準に戻しただけ」。理由は「軍事転用が疑われる横流しがある」。「北朝鮮の核開発に利用される恐れも否定できない」というわけだ。
だがこの理屈は苦しい。「疑い」や「恐れ」で制裁が認められるのか。緊急性はあるか。WTOで勝てるか、というと実に怪しい。
◆安倍政権の巧みなメディア戦略
対中、対ロ、対北朝鮮の外交を考えれば、韓国と良好で安定した関係は必要であることは誰もが分かっている。だが、安倍政権は「歴史認識」で譲れない。世論には、なんでサムスンにソニーやパナソニックが負けなければならないんだ、技術は日本が上に決まっている、という「臆病な自尊心」が渦巻いている。
屈折した嫌韓感情を抑え、良好な外交を構築することが安全保障にもつながる。それなのに、火をつけて煽っているのが、今の政治ではないか。参議院選挙直前に、事実上の制裁を打ち出した。世論調査では6割を超える有権者が支持している。
「アメリカに文句があるなら国に帰れ」と叫ぶトランプは、有権者に潜む差別感情を集票につなげるやり口である。
日本の「対韓制裁」はトランプの手法と似てはいないか。
2千万円年金問題、憲法改正など参院選の大きなテーマは吹っ飛び、「韓国とのもめ事」がワイドショーをにぎわせている。政権のメディア戦略としては、実に巧みだ。
日韓関係はこれでいいのか。貿易政策の指針は何か。産業への影響はどうなる――。面倒なことは選挙が終わってから考えればいい、というのだろうか。
コメントを残す