п»ї 原発被災 12年目の現実 復興事業あっても暮らしの復興なし 『山田厚史の地球は丸くない』第233回 | ニュース屋台村

原発被災 12年目の現実
復興事業あっても暮らしの復興なし
『山田厚史の地球は丸くない』第233回

3月 10日 2023年 社会

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山田厚史(やまだ・あつし)

ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。

3・11東京電力福島第一原発事故から12年。原発事故の被災地は今、どうなっているのか。福島県双葉郡の三つの自治体を訪ねた。取材のきっかけは、『原子力村中枢部での体験から10年の葛藤で掴んだ事故原因』(かもがわ出版、2021年8月)という本である。著者の北村俊郎さんは元日本原子力発電の理事・社長室長であり、原発事故被災者でもある。東京電力の原子力担当副社長だった武黒一郎氏や、その後任の武藤栄・元副社長らは一緒に原子力業界を担った仲間である。

北村さんは、双葉郡富岡町に晩年の棲家(すみか)を定めた。穏やかな気候、緑濃い環境が気に入り、退職後は妻と2人で暮らし、3月11日の東日本大震災に遭遇した。7キロ離れた福島第一原発で爆発が起こり、隣の河内村に避難を強いられたが、ここも危なくなり郡山市に逃げ、「原発難民」となった。自宅は帰還困難地域に指定され、戻ることはできない。

「原子力村」の中枢で働きながら、被災者になった北村さんは10年をかけて何が原発事故の原因だったのか考え続けた。その成果がこの本にまとめられている。

今月5日、北村さんを避難先の福島県郡山市に訪ねた。「12年が経ったが、原発被災地は取り残されたままだ」と言う北村さんの言葉に、北村さんが残してきた自宅やその一帯をこの目で見てみたい、と思った。

◆延々と続くゴーストタウンのような風景

福島第一原発は、双葉郡の双葉町と大熊町にまたがって立地されている。大熊町の南側が富岡町だ。この3町は放射能汚染が深刻で、全員が避難した。昨年、一部で避難指示が解除され、帰還が始まったという。現地で何が起きているのか。いわき市まで高速バスで行き、レンタカーを借りて富岡町を目指した。

2日かけて富岡、双葉、大熊の3町を走り回った。結論から言うと、「放射能汚染は地域の再生を不可能にした」ということである。「復旧工事は進んでいる。だが人の姿が見えない。暮らしは12年経っても戻らず、これから先の展望も描けない」との印象を強くした。

「浜通り」と呼ばれる太平洋岸の市町村を貫く国道6号を北上した。富岡の街に入ると、沿道の風景は一変する。大型電気店、衣料品量販店、ファミレス、ガソリンスタンド――。どこの町でもある店舗が、ここにも並んでいたが、すべて廃墟だ。外壁の塗装は剥(は)げ、ガラスは割れ、店内は瓦礫(がれき)の山になっている。 ゴーストタウンのような風景が延々と続く。

道路脇には 電光掲示板のような表示があった 目をこらすと 放射線量が表示されている。その下を土木工事の大型車両が行き交う。道路脇には黒い巨大なゴミ袋が積み上げられている。 直径 1メートル余りの土嚢(どのう)である。中は汚染された土壌だ。放射能の灰が降り注いだ田畑の表土を剥いで袋に詰めた。集めた土嚢は、「中間貯蔵施設」と呼ばれる福島県内の集積場に運ばれることになっているが、まだあちこちに放置されている。

政府は、中間貯蔵施設を造る際に「県外に運び出す」という約束で自治体や地権者の了解を取り付けた。ところが、放射能に汚染された土壌を大量に引き取る自治体など「県外」にない。巨大な黒いゴミ袋の山は、汚染土壌の行き詰まりを表している。汚染処理は「処理水」だけの問題ではないことが現地を見てわかった。

◆故郷に戻る意欲を失ってしまった元住民

北村さんの自宅には近づけなかった。帰還困難地域につながる道路に検問があり、許可証のないクルマは入れてもらえない。ゲート周辺には、家が建つ前の造成地のような風景が広がっていた。何かの建設用地かと尋ねると、「農地だったが除染で表土を削り取った」という。埃(ほこり)っぽい大地がむき出しになった荒涼たる風景。北村さんは部分的な立ち入りが認められるようになってから月に一回、自宅を訪れて室内の整理や庭の草刈りに汗を流したが、今はその足も途絶え気味だ。

近くに「桜通り」という街の名所があった 両側に桜の古木百数十本が立ち並び、春には祭りのにぎわいがあった。沿道には食堂や店舗が並んではいるが、朽ち果てて廃屋になっている。昨年、帰還困難区域の指定が解除されたが、誰も住んでいない。家や店舗を壊した更地があちこちにあり、「売地」 の看板が立っている。避難先から戻ることを諦めた人たちの痕跡(こんせき)でもある。

富岡町の調査によると、立ち入り禁止が解除されたら「自宅に戻る意思はあるか」との問いに、「戻りたい」という回答は13.9%だった。「戻らない」が50.8%。「まだ判断がつかない」29.4%。無回答が 5.9% という。過半数が故郷に戻る意欲を失ってしまった。

避難先で新たな生活が始まっている。職場、住宅、子供の学校など、新天地に根を張った人は、汚染が残り暮らしのインフラが破壊された故郷に帰る気になれないのだろう。

それでも故郷に戻りたい、と願う人の多くは高齢者だ。住み慣れた街で生涯を遂げたい。若い人たちは戻らず、老人だけ戻ってくるという家庭も少なくないという。

国道6号を北上し大熊町に入ると、「福島第一原子力発電所」という表示があった。枝分かれした道路を1キロほど進むと検問所があった。ここも許可証のない車は立ち入り禁止だと言われた。「取材で来た。許可はどこで取るのか」と尋ねると、奥から相撲取りのような体つきのガードマンが現れ、「すぐに退去しろ」と威圧的に言う。「立ち入りがダメならここから写真を撮りたい」というと、「写真はダメだ。ここは対策本部の敷地だからクルマを止めるのもダメだ。すぐUターンしろ」と命令口調だ。

少し離れたところにクルマを停めて海の方向を見ると、高いクレーンが2本見えた。あのあたりで、壊れた原子力発電所の後片付けが行われているのか。今も高濃度の放射線が出ている炉心には近づけない。燃料棒が溶け落ちた「デブリ」を遠隔操作で取り出すことを試みているが、果たせない。耳かき1杯分のデブリ破片に到達するまでに12年がかかった。デブリを取り出し、高濃度に汚染された原子炉を解体して除染するまでに何十年かかるのか。一世代では済まない、といわれる。解体処理か、それともチェルノブイリ原発のように「石棺」に閉じ込めてしまうか、という基本方針さえまだ決めきれない状況だ。

◆原子炉の暴走を食い止めた中国からの寄贈機器

双葉町には、震災と原発事故の記憶をとどめる「伝承館」が総工費53億円を投じて造られた。 来館者はまばら、入場料600円を払って見学した。事故の経過、自治体や東京電力、自衛隊らによる対応、津波の遺品や人々の生活の再現など事故の記憶を刻み込む、という趣旨の展示が並び、職員たちが語り部のように事故の経過を説明する。

全電源を喪失し、炉心を冷やすことができなくなって燃料棒のメルトダウンを防げなかった。使用済みの燃料棒も「崩壊熱」が発生し、冷やし続けないとメルトダウンを起こす。貯蔵池への注水をしないと使用済み燃料が溶け出し、東日本が壊滅しかねない大被害の恐れがあった。だがホースが届かず、ヘリコプターからの空中散布もうまくいかず、絶望的な状況だった。注水が成功したのは、高さ40メートルほどのキリンのようなコンクリート注入器を使っての放水だった。その写真が展示されていた。

「この装置は中国から寄贈されたものです」との説明を受け、意外だった。絶望の際に立たされていた現場の作業員を助けたのは、中国から贈られた機器だったとは初耳だった。生コンを高い建築現場に注入する機械が中国にある、との情報を得て、すがる思いで中国のメーカーに「売ってほしい」と頼み込んだ、という。「売りません。タダで提供します」と対応してくれた、というのである。

今では中国との外交関係は悪化しているが、「事故という危機に隣国が示してくれた恩義は忘れません」という説明員の言葉が心に残った。

伝承館の裏に回ると、「原子力で明るい未来のエネルギー」 と書かれた大きな看板が置いてあった。双葉町の駅前通りに掲げられていた看板だという。双葉町は原発マネーが地元に落ち、工事や雇用で町は潤い、原発とともに「明るい未来」を目指していた。それが一変し、原子力が街を破壊した。昨年、帰還困難区域を解除された時、この看板は人知れず外された。そのことが後になって分かり、「原子力を煽(あお)ったのも街の記憶としてとどめるべきだ」との声が上がり、レプリカが伝承館にひっそりと展示されることになった。

◆人はカネだけでは戻ってこない

双葉町は禁止区域が一部解除され、およそ60人が住民登録を済ませた。そのうち40人ほどは県外の人だという。復興事業の現場で働く人たちでも住民登録さえすれば安い復興住宅に住むことができる。元町民で戻ってきたのは20人ほどだ。役場の職員などは、いわき市など近隣から通っている。帰還者が少ないのは富岡町と同じ事情だ。すでに双葉町に戻っても、食料品を買うところも子供の学校もない。病院は町営住宅の一角に週3回、医者が訪れるが、内科だけ。JR双葉駅は建て替えられモダンな装いになり、隣に町役場が建ったが、周囲は廃屋ばかりで商業施設はない。昼になると、キッチンカーやって来て役場の職員が並んでいた。

暮らしが消えた街で目立つのは、ダンプカーなど工事車両だ。高速道路と国道をつなぐ4車線道路や復興祈念公園の造成など土木工事が盛んに行われている。避難先から住民が戻れるように復興住宅や商業施設の整備も計画されている。確かに復興事業は着々と進んでいる。カネをかければ土木工事やハコモノ建設は可能だが、人はカネだけでは戻ってこない。

東京新聞によると、昨年6―8月に避難指示が解除された福島県葛尾村、大熊町、双葉町で特定復興再生拠点区域に暮らす人は、2月時点で住民登録者の1%程度にすぎないという。

戻るのは、故郷に愛着のあるお年寄りばかりだ。働き盛りの人たちには現実の暮らしがあり、生活インフラの希薄な故郷に戻らない。すでに12年が経ち、避難先に根が生えている。時間が経過すればするほど帰還は困難になるだろう。

廃墟のような街に復興事業だけが槌(つち)音高く進み、街に集まる人は復興事業の関係者か、復興事業に群がって商売する近隣に住む人たちだ。だが、復興事業が下火になれば、商売は成り立たない。住民はほとんどいない。住民相手の商売は成り立たないから、生活インフラが育たない。今は税金を投入して住宅や商業施設ができるが、果たしてテナントや賃貸住宅は埋まるのだろうか。

◆「人が戻らない地域に未来はない」

北村さんも富岡の自宅に還ることを諦めた。近所の人も戻らない。表土を剥がされた荒涼とした地で晩年を過ごすのは辛い。帰還禁止区域はやがて解除され、暮らしのインフラは少しずつ整備されるとしても、いつになるか分からない。自宅は解体することにした。

小学生の頃、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞に励まされ、原子力の平和利用を信じてこの業界に人生を賭けた。福島事故の前から、業界の隠蔽(いんぺい)体質や独善は気にはなっていたが、これほどの事故を起こし、自分も被災者の一人になるとは思ってもいなかった。

「ふるさとに戻ったお年寄りも、やがて亡くなる。人口は再び減るだろう。人が戻らない地域に未来はない。原発事故の爪痕(つめあと)は深い」と、北村さんは無念をかみしめながら語った。

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