山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社ふぇの代表取締役。独自に考案した機械学習法、フェノラーニング®のビジネス展開を模索している。元ファイザージャパン・臨床開発部門バイオメトリクス部長、Pfizer Global R&D, Clinical Technologies, Director。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
◆過剰適応の脱学習
本シリーズの直近3回は、本題であるAI(人工知能)農業から脱線して、多少哲学的ではあったけれども、データ論理について考えてみた。AI農業は、データ論として取り組んだ「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」の宿題だった。近未来におけるAI技術の在り方を、より具体的な経済的な課題として、批判的に(限界を自覚しながら)考えている。「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」では、AI技術を上手に使えば、個人の健康問題や、地球の社会・環境問題を解決する探索路が見つかるという、楽観的なシナリオが基調になっていた。しかし、極端に資本主義化して、市場変化を無理に加速する、最近のAIビジネスにおいて、より深刻になる経済・社会・環境問題が、加速された時間スケールでは、良い方向に解決されるとは思えなくなり、作戦を変更することを試みている。「みんなで機械学習」をする活動目標を、組織に潜在する過剰適応の記憶を脱学習(アンラーニング)することと仮定して、再考している。加速主義も、技術信奉の固定概念による、過剰適応の一種だろう。
◆直接性への希求
人びとの活動は、社会の分業体制や機械と共に働く産業革命によって、間接的になってきた。貨幣などの金融は、もともと間接的だったけれども、最近では間接的な度合いが極端になって、仮想的になっている。人びとの生活も、家庭電化製品や生活関連サービスによって、かなり間接的になってきた。一方で、家庭菜園や日曜大工など、生活実感をともない、経済的なメリットもある自作志向も、時間の余裕がある高齢者で人気がある。ゲームの世界での仮想的な生活は、苦しみがなく楽しいかもしれないけれども、仮想的な自然の中であっても、現実的には老化する。筆者のような老人には、がんの末期療法で、鎮痛剤としてモルヒネを使っているように思われる。
選挙の政治活動では、直近の経済政策が競われて、歴史的な課題や、未来への政策は訴求しづらい。政治を信頼しない人びとは、政治に直接的な果実を求めているようだ。政治を信頼しない民主主義政治は、人びとも相互に信頼しない。一見すると、直接的な行動を希求しているかのようであっても、自国の戦争ですら、ロボットや傭兵(ようへい)による代理戦争でしかない。直接的な果実を求める政治は、間接民主主義に慣れ親しんで、ますます間接的になっている。米国のように、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を多用する政治活動は、仮想的な政治活動の段階となった。もし近未来のデータ文明において、「直接性を希求する哲学」が機能しないと、とても危険な社会になって、短期間に破局に向かうのではないかと、心配している。かつての自然科学は、直接的に、実験で確認できるものだった。現在の天文学や、素粒子論も、ガリレオやニュートンが考えた万物の法則の延長なのだけれども、確率的な現象については、間接的にしか観測できない。確率的な現象も含めて、コンピューターシミュレーションで、直接的に実験することで、自然科学に直接性を取り戻して、少なくとも哲学としては、直接性を希求したいものだ。直接性を希求する哲学は、試行錯誤を容認するので、過剰適応の記憶を脱学習(アンラーニング)することにも役立つだろう。
◆AI林業が未来の資源国家をつくる
筆者としてはあまり得意ではない政治の話題を考えたのは、現在の経済活動は、政治によって制御されているからだ。政治による経済の制御は、古典的なフィードバックコントロールが大半で、予測制御の段階には至っていない。それでも、経済と政治に距離感があった時代の、自由市場や「神の手」の神話、もしくは社会科学としての経済学の時代ではなくなった。選挙結果(もしくは民意)の予測が困難で、結果として、政治が約束した直近の果実(政策といえるほどの一貫性や整合性がない)が生み出す経済状況を、中央銀行などの経済専門家がフィードバックコントロールしている。前世紀から、まもなく石油や石炭などの化石資源が枯渇することは分かっていた。化石燃料が炭酸ガスとなって、異常気象や地球温暖化をもたらすことも予測されていた。予測技術を技術革新するAI技術が、膨大な量の電力を消費するのだから皮肉な話だ。
直近のAI農業について楽観的に考えれば(例えばスマート農業のように;※参考、https://www.maff.go.jp/j/kanbo/smart/houritsu.html )、その批判力の欠如によって逆説的に、近未来のデータ文明が悲観的に見えてくる。スマート林業は、スマート農業よりも残念な未来でしかない。そもそも、スマート農業にしても、スマート林業にしても、少数の生産者の立場でしか考えていないので、社会全体としてみると、残念な未来になるのも当然だろう。例えば、バイオ炭(※参考;https://biochar.jp/whatisbiochar/、『図解よくわかる 炭の力』〈杉浦銀治、炭活用研究会、日刊工業新聞社、2014年〉)という炭技術による農業環境問題への取り組みに、日本政府のスマート農業やスマート林業では十分な考察がない。バイオ炭を土壌に戻す試みは、古代の焼き畑農業の現代版で、生産を継続しながら、安全かつ確実に炭酸ガスを土壌に封じ込めることができる。石油や石炭などの化石燃料を燃やして炭酸ガスにしていたのだから、炭酸ガスを固定した植物を炭にして、土壌に戻せば、現在の気候問題に対処するだけではなく、未来の資源を蓄積していることになる。炭作りに適した植物を探索したり、炭作りを自動化したりするために、AI技術は大いに役立つだろう。
◆小規模なAI農業は知財で稼ぐ
特許権などの知的財産権は売買も可能だけれども、一般論として、発明家は儲かるビジネスとは言えない。しかし、現在のビジネスは、商標権や著作権も含めて、無形財産の価値が大きく評価されるので、M&A(企業の合併や買収、事業統合など)では知的財産が重要視される。農業や林業においても、事業主体が法人になって、M&Aが盛んになれば、時代の資本主義の流れに乗りやすくなる。農業は食料安全保障で特別だという考えがあるかもしれないけれども、軍事産業が特殊であっても、事業単位でのM&Aは資本主義社会で普通に実施される。少なくともAI農業の技術開発では、グローバル資本主義におけるM&Aが機能する事業環境を想定したい。
AI農業を小規模農業と想定しているのは、新規技術を開発するスタートアップ企業が活躍しやすいからだ。現在の農業法人が、機械化による大規模農業を志向しているので、その隙間からスタートアップしようという考えだ。農作物の商品価値を高めるのは、農業ではない、少なくとも農家の仕事ではないという、過剰な分業意識を脱学習することから始めたい。農作物の商品価値を、「おいしく食べる」、「手軽に食べる」といった属人的な従来の価値から、データ駆動のプレシジョン栄養学で、健康に生きる個別のデータの価値へと、脱学習する。皇帝のような食生活では、運動機能や脳機能も含めて、健康に生きることはできない。個体差(地域差も含めて)を考慮して、健康な食生活を実現するためのAI農業は、実効性のある感染症対策にも寄与できる。農業、林業、水産業の第1次産業から、データ文明における産業革命が始まる。もちろん、その成果は、早急に第2次産業や第3次産業にも波及するので、社会全体が脱学習することになるだろう。
◆データ文明はデータ産業社会ではない
産業社会の定義は難しいかもしれないけれども、筆者としては、「大人になったら運転手になりたい」などという、分業社会の在り方に疑問を持って生きてきた。機械が人間の労働力を超える時代では、機械が人びとの仕事を奪うのではなく、機械が人びとと分業するのでもなく、仕事や分業の在り方そのものを脱学習する必要がある。データの生産者が個人の場合は、データは個人に帰属するとしても、機械のデータや自然環境のデータであれば、データの生産者よりも、データを使って何をするのか、どのような問題を解決するのかが問われるだろう。データの生産コストは限りなくゼロに近くなり、データを使えば、人間の能力を簡単に超えられる。生活者が問題を発見して、冒険家のチームが問題を解決する、もしくは、冒険家のチームに人びとが投資する、データ文明の始まりは、新大陸を発見した大航海時代に似ているかもしれない。新大陸の植民地でロボットが働く。
近未来のデータ文明がありうるとすれば、最初に解決するべき現在の問題は、人口減少ではなく、「ひきこもり」の問題だろう。「ひきこもり」が自問する問題は、生活能力の裏付けがないので、AIに与える課題としては、不適切で危険な課題になる可能性がある。「ひきこもり」では、冒険家のチームに参加することはできない。人口が増えても、それ以上に「ひきこもり」が増えるのであれば、現在の資本主義社会においても、近未来のデータ文明においても、そのような社会は、持続可能とは思えない。異次元の少子化対策で若者世代の得票をもくろみ、「ひきこもり」の問題を家族に押しつける現在の政治に未来はない。ひきこもる人びとはさまざまで、「ひきこもり」の原因や課題を列記すれば、すぐに数百項目になるはずだ。現在の機械学習技術では、個体差の問題を統計解析よりも上手に取り扱うことはできないし、筆者が探求しているフェノラーニング®でも、「ひきこもり」のように、その背景となる生物学的・心理的・社会的要因などが絡み合う個体差の特異的な状態まではモデル化できない。高齢者の認知症と、若年者の「ひきこもり」、このように難しい問題は、医学の問題以上に社会の問題で、専門家や政治家に任せておく問題ではない。
◆病的な社会と健康な経済
現在の先進国社会では、暴力や貧困など、社会問題というよりも、社会病理ともいうべき、治癒の希望がない「死に至る病」が蔓延(まんえん)している。暴力や貧困は、発展途上国においてもっと深刻で、先進国と発展途上国のギャップ(無理解と不寛容)が生み出す、社会的ゆがみやストレスによって、人類社会全体が「死に至る病」の出口なき社会病理に苦しんでいる。新大陸を発見した大航海時代においては、奴隷経済や植民地経済によって繁栄したのだから、先進諸国における長年の病的な経済によって、社会が疲弊して慢性疾患を発症することは容易に想像できる。しかし、社会病理としての「死に至る病」から治癒することは可能なのだろうか。特効薬があるわけではないので、100年単位の長い時間をかけて、過適応から脱学習するしか方法は無さそうだ。社会病理を理解できないAI技術は、いかなる社会病理に関しても、特効薬ではない。社会が病的な状態において、人びとは、認知症や「ひきこもり」とともに生きてゆくしかない、それ以外の方法はない。
たぶん、社会病理を多少でも理解できるようになるのには、1000年単位の時間が必要だろう。実際に、歴史上の不健康な経済は、そのような時間で社会病理を作ってきた。私たちにできることがあるとすれば、健康な生活習慣で慢性疾患を生きるように、健康な経済プロセスを志向して、いつかは健康な経済システムが定着することを期待することぐらいだろう。健康な経済プロセスとしては、前稿で「P(4+1)Healthy Economy」について考えてみた(『みんなで機械学習』第50回「歴史の未来」;https://www.newsyataimura.com/yamaguchi-131/ )。経済学の専門家は、資本主義経済とか市場経済など、経済システムを議論する。個別の経済プロセスは、経済システムに統合されて、政治(国家)によって制御されていると仮定しているのだろう。その仮定の真偽とは別問題で、病的な経済環境においては、システムの動作を信用しないほうがよさそうだ。個別の経済プロセスについて、P(4+1)Healthy Economical Processを志向することにしよう。経済プロセスとしては、個別の経済活動を抽象化して、例えば業界団体や地域経済として、経済のインプットとアウトプット、そして内部変数がモデル化できることを想定している。AI農業としても、その経済プロセスのスケール感は、地域や国家のレベルかもしれないけれども、本論としては、出来るだけ小さいレベルで、具体的に考えるようにしたい。次回は、栗栽培のAI農業(AI林業)について考えてみる。
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『みんなで機械学習』は中小企業のビジネスに役立つデータ解析を、みんなと学習します。技術的な内容は、「ニュース屋台村」にはコメントしないでください。「株式会社ふぇの」で、フェノラーニング®を実装する試みを開始しました(yukiharu.yamaguchi$$$phenolearning.com)。
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