п»ї 野生の位相(2)『週末農夫の剰余所与論』第2回 | ニュース屋台村

野生の位相(2)
『週末農夫の剰余所与論』第2回

7月 20日 2020年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

週末農夫の農園「Magley2号」の2020年7月2日の様子=筆者撮影

前稿(野生の位相-1)では5月24日の農園を紹介した。1カ月が経過して、ヤーコンとショウガが芽を出し、タマネギとニンニクを収穫した。初収穫の野菜には小さなカボチャも含まれている。苗木を大きく育て、サルの被害対策のため、小さいナスやピーマンも収穫した。花ズッキーニとして楽しんだ後、ズッキーニは豊作だ。「Magley1号」の梅も収穫して、梅干しにしている。今年はよい梅酢がとれるだろうか。

前稿は、「生きる時間は位相にコーディングされている」という意味不明な文章で終わってしまった。剰余所与論は意味不明な文章を、剰余意味論として受け入れ、言語の限界としての意味を、データによって乗り越えてゆく哲学的な散文と思っていただきたい。データ論を構想する筆者が、意味不明な文章にこだわるのは、データ論の根幹となる「ランダムネス」もしくは「乱数学」が意味不明だからだ。ロシアの数学者、コルモゴロフ(1903~87年)のように、確率論を微積分学の測度論から「上から目線」で定義するのではなく、実際に量子力学のような自然現象を記述できるランダムネスの立場から確率現象を再定義したい。そこは量子力学が意味不明になる地点でもある。自然現象が意味不明になるのは量子力学だけではない。進化論は意味不明であるにもかかわらず、ウイルスを含めた地球型生命の遺伝子解析は先行している。ヒトの遺伝子が解読できても、その95%以上は意味不明なのだ。自然科学の理論が実験データによって正しいことが検証されても、意味不明な理論はたくさんある。理論によって説明できない科学的「データ」は膨大な量になっている。意味不明なデータを受け入れて、気長に意味を見いだす作業、もしくは既存の言語的表現の意味には還元しない考え方を剰余所与論として探求したい。

哲学的な散文だからと言って、難解なわけではない。単に意味不明なだけであって、多くの人びとの生活が意味不明であっても、難解ではない。農園の風景も意味不明だけれども、難解ではない。農作業の意味や価値は、収穫物としては比較的容易に理解できる。結果は分かりやすいけれども、農作業を行う意図や計画は、ほぼ予測不能といってもよい。予測不能な状況の中で、意味を見出すのは困難だ。しかし、意味不明であっても、統計的な推論から予測可能なことはよくある。

そもそも、ここでいう「位相」とは、波動の位相を意味している。海の波が打ち寄せる「波動」が、とても不思議に思えた経験がある。海の波は打ち寄せているのに、海水が移動しているわけではない。海水は周囲の海水と位相差を持ちながら、上下運動、または回転運動をしている。本当に海水が移動してくると、津波のように大変なことになるだろう。波動方程式は回転運動を伴うので、複素数によって表現される。波動方程式を研究して、孤立波(ソリトン)まで発見されたのだから、不思議としか言いようがない。波動は難解なのだろうか。おそらく、物理現象としての波動は直感的に理解できたとしても、複素数の定義も理解できたとしても、複素数で記述される位相は難解なのだと思う。

生物は自分が生きる「位置」を、波動における位相にコーディングしていると考えよう。「コーディング」が意味不明であれば、「表現」と言い換えてもよい。近代科学は普遍性、普遍的に成り立つ法則を追求してきた。抽象的な数学が王道であるかのように見える。しかし、数学には別の側面がある。個別の数そのものの性質、例えば素数の性質には、普遍性で表現し尽くすことはできない、ランダムネスが伴っている。身近な生活では、むしろランダムネスのほうが主役で、個別であることが常識で疑いようがないものとも思われる。個別であることは個体差があるということでもあるので、個体差は単なるランダムネスなのかという疑問が生じる。遺伝的な意味での個体差は、ウイルスとの共生を考えない範囲では、ランダムネスが大半かもしれない。しかし、環境的な意味での個体差、自分が生きる「位置」は、ランダムであった場所に、生命に伴う波動による位相を重ね合わせて表現している。個体差を表現しているので、自分が生きることが自由意志のように感じられるのだろう。脳波のように、生命に伴う波動が生理現象である場合もあるし、生殖をともなう生活環(Life Cycle)のように、集団的な生態学的な現象である場合もあるだろう。「野生の位相」の人類最初の発見者は、17世紀の哲学者、スピノザだった。スピノザの幾何学は、ユークリッド幾何学のような証明体系にはなっているけれども、「神」を無限遠の特異点として追加した射影幾何学だったと思われる。少なくとも、レンズ磨きのスピノザは、無収差レンズの磨き方から、神である光の波動方程式を、光の位相として体感していたに違いない。

農作業をしていると、学ぶべきことは無限にあることがよくわかる。農園で生きるカエルにとっては、その「位置」をどのように学んでいるのだろうか。保護色の緑の葉っぱで、しかも獲物があり、敵からは逃げやすくなければならない。場合によっては、求愛の場所でもある。カエルも絶えず自主的に学習している。ミミズは土壌の構造と組成について、ヒトとは比べものにならないほど、多くのことを自主的に学習している。自主的な学習にとって、情報量や情報処理能力はあまり関係ないかもしれない。生物が生きる「位置」を「位相」としてとらえることができれば、豊かな複素数の世界が広がっているのだろう。

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