山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
「表現としての性と老い」というタイトルで最初に思い浮かぶのは、本シリーズ第6回に紹介した画家デ・クーニングだろう。ロンドンのテート美術館企画展(1995年)における晩年の作品は恐ろしかった。当時は理解不能なアルツハイマー病の恐ろしさかと思ったけれども、彼の伝記を妻の眼から読み直すと、ランダムな抽象画が妻の愛もしくは謀略のように見えてくる。
遺伝子はタンパク質を表現し、タンパク質は水で身体を造形する。遺伝子は性や老いをうまく表現できるように、タンパク質の発現調整機序を記憶しているのだと思う。表現は感覚に依存しているので、動物では論理的な視覚、感情的な聴覚、本能的な臭覚・味覚・触覚が表現の基軸となる。人工知能がヒト並みになったのは論理的な視覚と言語的な聴覚ぐらいだろう。哲学書エチカに書かれたスピノザの感情論は幾何学なので、視覚的でしかない。音楽は聴覚に感情的な表現をもたらす。表現としての性と老いを考えるためには、音楽のほうがふさわしいかもしれない。
1992年にロンドンの街で1回だけ聞いた音楽、A HOUSEのCDを空港で買って帰国した。現在はYouTubeで聞くことが出来る。大きく変わってしまった生活は老いの必要条件だろう。しかし、感情的な聴覚は母親へのすりこみ効果のように、特異点の周りを回り続けている。表現は徹底して個別的である。表現する者、表現されるもの、表現を気にとめる者、全て個別的であって、この3要素の偶然の組み合わせが表現となる。A HOUSEの音楽は、優れて都会的なのに、徹底して個別的でもある。確実に20世紀末を歌っているけれども、次世代を意識して、文明の「老い」とともに生きているようにも聴こえる。
WHAT^(ホワット・ハットと読んでください)は何か気になることを、気の向くままに、写真と文章にしてみます。それは事件ではなく、生活することを、ささやかなニュースにする試み。
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