п»ї ゼロ神論 『週末農夫の剰余所与論』第6回 | ニュース屋台村

ゼロ神論
『週末農夫の剰余所与論』第6回

12月 23日 2020年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

「ニュース屋台村」に寄稿し始めた4年前、拙稿「データを耕す」第1回(2017年1月31日)の結語は「『データ』はコンピュータにとっての『自然』そのものであり、『神』はプログラムを正当化するアルゴリズム(計算手順)と考えることで、デカルト、スピノザ、ライプニッツの時代までさかのぼり、『データを耕す』ことにしよう」だった。このような「強いデータ論者」にとって、スーパースターはライプニッツであることは明らかだった。ライプニッツが万能計算機とデータ(所与)の概念を発明したのだから。しかし、スーパースターの上を行くのがスピノザだった。ライプニッツは人類初のスピノザ主義者として死んでいったという、筆者の勝手な解釈が現在まで続いている。現代を生きるイタリアの哲学者、アントニオ・ネグリが言うように、スピノザは近代の始まりであるとともに、あり得た別の近代の物語でもある。

スピノザは「ゼロ神論者」であったと仮定してみよう。スピノザは、当時告発されたような「無神論者」でないことは、彼の著作を読めば明らかだけれども、当時は発禁本なので一般市民は読みようもなかった。現代風に、洗練された「汎神論者」と理解すれば、彼の著作とは矛盾がないけれども、ニーチェに「神に酔った人」とまで言わせ、アインシュタインが「スピノザの信じた神を信じる」のであれば、それは一神論の神であり、汎神論ではないことも明らかだ。ただし、スピノザは人格神を否定しているという意味で、世俗的な一神論ではない。スピノザは、世俗的な神より大きくて、同時に世俗的な神より小さな神を信じていたのかもしれない。スピノザの神は、大きさの概念も超越しているのだ。一神論の神から人格神を差し引いてゼロ神論となる。筆者の仮定は、スピノザの神は全ての属性を創造したとも言い直せる。少なくとも、スピノザの「エチカ」はそのように読める。ゼロ神論ではあっても、神の実在は疑っていない。数が実在すれば、ゼロも実在することになる。

筆者のような「強いデータ論者」の立場では、属性よりも所与(すなわちデータ)に優先権を認める。それではデータ以外を認めないのかというと、属性が明確に定義されない限り、データの意味は無いのだから、全ての属性を創造した神は最大限に尊敬しているつもりだ。人間が属性を定義したのではないかと疑うこともできるけれども、数の実在性を信じる立場では、言語も数も、人間の創造物ではなく、人間も含めた自然の創造物としか言いようがない。「強いデータ論者」の立場であっても、人間が理解しうる、すなわち意味のある自然を創造したのは人間以外の神であったとしても論理的な矛盾はない。スピノザの神は全ての属性を創造した。そして自然が全ての所与を与えたとすれば、スピノザの「神すなわち自然」が理解しやすくなる。

スピノザは「ゼロ神論者」であったという仮定は、筆者自身が「ゼロ神論者」であるという告白と同義だと思う。筆者は中学生時代からギリシャ哲学を好み、ローマ神学以前の「無神論者」であると自負していた。このような浅い歴史認識に、スピノザの聖書理解は大きな一撃だった。神はいつの時代であっても、人民とともに、民衆が理解しうる言葉として実在していたのだ。当時の民衆が理解しえない言葉も、神の啓示としては理解しうる。ホモサピエンスが言葉を獲得し、数を理解するようになった時に、神が神話の世界に出現する。宗教を誤った思想、社会的に不必要な思想として排除しようとする科学者は少なくない。宗教と科学の歴史を振り返ると、理解できない考え方ではない。しかし、本来の宗教は、科学的真理観とは別の次元を問題としていて、民衆の生活に寄り添うもののはずだ。ゼロ神論は、数の実在性という抽象的な概念だけではなく、宗教の社会的役割を認める考え方でもある。

宗教の社会的役割として、最も重要なことは、生死という属性に、一生活者の人生という所与を与えることだと思う。実際は、宗教的儀式によって所与に属性としての意味を与えている。剰余所与論では、宗教的ではない日常生活の所与に意味(属性)を再発見する試みを行っている。しかし、SNS(ソーシャルネットワークシステム)が古い倫理を破壊して、新しい倫理が見えてこない現代において、剰余所与論も宗教との接点が必要ではないかと反省している。ゼロ神論の立場から、SNSにおける当事者を無視した「かげぐち」の反倫理性について考えようとしたけれども、筆者のゼロ神論は未熟で、スピノザの時代はSNSとはあまりにかけ離れているため、思考がまとまらなかった。あり得た別の近代が遠い昔の物語となってゆく今日において、それでもデータ化される生活は直近の問題なのだから、次稿では現代思想に別ルートを探してみよう。

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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。

『週末農夫の剰余所与論』過去の関連記事は以下の通り

『データを耕す』第1回(2017年1月31日) 自動運転車は何馬脳なのか

https://www.newsyataimura.com/%e8%87%aa%e5%8b%95%e9%81%8b%e8%bb%a2%e8%bb%8a%e3%81%af%e4%bd%95%e9%a6%ac%e8%84%b3%e3%81%aa%e3%81%ae%e3%81%8b-%e3%80%8e%e3%83%87%e3%83%bc%e3%82%bf%e3%82%92%e8%80%95%e3%81%99%e3%80%8f%e7%ac%ac%ef%bc%91/#more-6319

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