山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
感染防止や生活保護において、「自助・共助・公助」がどのような政治的文脈で語られていたのか正確には記憶していないけれども、まず自助で努力してから最後が公助という立場と、公助によって社会的な不均衡を是正することで自助ができるようになるという考え方の違いがあったはずだ。筆者は「ウイルスはデータとして生きている。ウイルスとの『共存・共生・共進化』は、データとの『共存・共生・共進化』でもある」などと、全く政治的ではない文脈で、共助を強調してきた。NPO活動は共助そのものなので、主義主張としては一貫しているつもりだ。つまり、自助をスタートにしても、公助をスタートにしても、共助が機能しない限り、社会プロセスとしては「廻(まわ)らない」と考えている。
新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)に関連して、ウイルスとの共生を主張する生物学者は少なからずいるようだけれども、SNS(ソーシャルネットワークシステム)などで大いにバッシングされているようだ。筆者としても、100万人以上の方々が亡くなっている状況では、そのような発言をする勇気はない。感染防止に関して、自助や公助が重要であることは言うまでもない。しかし、あえて「共助」をNPO活動として取り組んでいるのは、都市部と地方の人々がどうしたら共助できるのか、感染者と非感染者の共助はあり得るのか、人々の共助がウイルスとの「共存・共生・共進化」のありかたについて、大きなヒントになると考えているからだ。そのような共助は「データ」共有が出発点になるということも、筆者の主張としては容易に想像できるだろう。
デジタル・トランスフォーメーション(DX)が現政権の切り札的政策であることは好意的に理解しているつもりだ。しかし、あえて剰余所与論としてはDXの政治性に言及してみたい。現政権が推進しているのは、行政と経済活動のDXであって、政治活動のDXではない。政治活動をDXすると、政治資金の透明性が高まるかもしれないけれども、SNSによるフェイクニュースやヘイトスピーチなど、DXの副作用も相当なものとなるだろう。少なくともネット犯罪を効率よく取り締まり予防できるようにならない限り、デジタル化した政治活動にはよほど注意すべきだ。警察機能のDXや軍事のDXが技術的にはどの程度のものなのか、社会的影響を想定してどのように取り組み、どのように制限すべきなのか、政治活動のDXよりも優先順位が高い課題がたくさんある。しかし、権力者は無知ではないし、無能でもない。特に、軍事のDXが米国・中国に大きく後れを取っていることは明らかで、その技術的人材的な遅れが、行政や経済活動のDXの遅れの原因である可能性も大きい。もし、現政権が水面下で警察・軍事を含む政治のDXを推進しているとしたらどうだろうか。DXの政治性は直近の課題でもある。
剰余所与論の立場から、DXの限界についても指摘したい。アナログからデジタルへという技術の発展方向に疑いはない。しかし、技術の発展はデジタルで最終的な完成形であるという保証もない。数学的には、幾何学や解析学の方法から代数学へと、証明理論としてより厳密で強力な方法に発展してきた。しかし、証明だけが数学ではないし、証明できてはいないけれども、おそらく正しい数学的予測はたくさんある。筆者は根拠もなく、デジタルの次はランダムだと考えている。少なくとも、量子力学の世界や統計的な生命論ではそのように見える。デジタル化される生活を生きながら乗り越えてゆくのは「ランダムな人びと」であろうという希望も持っている。「ランダムな人びと」は無政府主義者ではなく、AI(人工知能)が行政・立法・司法の機能を実施するときに、「データ」を提供する最重要の社会的役割を担う。「データ」はできるだけランダムであることが好ましい。近未来のSFのような話かもしれないけれども、水面下で進むDXの政治性とその限界を明らかにするのも、「ランダムな人びと」なのだ。
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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。
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