山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。早春の作業が終わった筆者の農園。昨年春と似た風景になっている。タマネギ3種とニンニクが収穫を待っている。ズッキーニ、ブロッコリ、キャベツ、キュウリ、ナス、金時草など15種の苗と、ヤーコン、サトイモ2種の種イモを植えた。ニラ、ホースラディッシュ、ルバーブは数年ごとに株分けをして植え替えている。完全無農薬なので雑草の管理が大変だ。10年前よりは質(たち)の悪い雑草が減り、雑草であっても食用になるスベリヒユやアカシソが自生している。完熟堆肥(たいひ)を入れているので、過度の酸性土にならないように、貝殻粉末などの有機アルカリで調整している。今年はサルの被害はまだない。毎年の異常気候にもかかわらず、10年以上同じような農園風景なのだから不思議だ。部分的な画像としては全く異なるのに、全体の風景としては自己保存している。
筆者の農園Magley2号=2021年5月24日 筆者撮影
植物の生育にとって大切な「場所」(すみか)は、土壌と気候の複雑な組み合わせであって、昆虫や動物たちによる介入は、さらに場所を個性的にしている。植物は生育する場所を試行錯誤で選んでいるだけではなく、世代を超えた他の生物との共生によって、ゆっくりと場所を変化させている。動物にとっての「場所」は、群れの中の位置や「順位」が重要な場合が多いので、植物よりは短時間に変化してゆく。微生物は、土壌の中や、動物の消化器の中をすみかとするだけではなく、ウイルスでは他の生物の遺伝子の中にまですみかを見いだしてしまう。生物にとって「場所」は空間的属性としての論理ではなく、生活の中で個別化された所与(データ)であって、世代をつなぐ生活環(ライフサイクル)の表現でもある。
農園風景をあえて哲学的に難しく書いているつもりはない。農作業を楽しみながら、哲学史には載っていない、AI(人工知能)時代の哲学を模索している。昨年から、AI技術で大きなブレイクスルーが続いている。筆者にとって最もショッキングだったのは、タンパク質の立体構造を予測するアルファフォールド2(ディープマインド社、ロンドン)の成功だ。タンパク質の1次構造(遺伝子にコードされたアミノ酸連鎖)は、現在2億個程度知られているけれども、タンパク質の立体構造はわずかに10万個程度しか解明できていない。アルファフォールド2はこの問題で、X線結晶解析に相当する精度での予測に成功した。タンパク質複合体の構造予測など、まだ多くの課題が残っているけれども、科学データの機械学習が、科学的知識の蓄積を一気に乗り越えてしまった。しかもその知識(というよりも予測機械)はグーグル傘下の1社に独占されている。
画像や音声の機械認識では、AI技術は人間並みの性能となり、実用段階になっている。自然言語処理においても、人間でも見分けがつかないほど高精度な文章を生成する「GPT-3」(非営利団体でマイクロソフトが資金援助しているOpenAI、サンフランシスコ)が開発され、様々な応用が模索されている。機械翻訳ではグーグル翻訳よりもはるかに完成度が高まった。コンピューターの機能が人間の知能を超える時代、シンギュラリティーが達成されたと考えられる。確かに実際の影響や効果において、人間の能力を超えたかもしれないけれども、個別の知能としては子供並みで、たくさんの子供を24時間強制労働させているようなものだ。AI技術は従順な子供のままで、気難しい大人にならないほうが都合良いのかもしれない。
AI技術の哲学としては、17世紀末ドイツの哲学者ライプニッツのような合理的論理主義から出発したとしても、シンギュラリティーが達成された現代においては、英米哲学、プラグマティズムが最も相性が良いことは明らかだろう。プラグマティズムは分析哲学の文脈で再評価されてネオ・プラグマティズムとなり、環境倫理への展開で環境プラグマティズムが提唱された。AIプラグマティズムはあまりに自明なので、哲学的反省の対象とはならないのだろうか。犯罪の規制に終始する法律論は後手番の(事後的)問題処理でしかなく、未来に野放しされたAIプラグマティズムは、かなり危険なAI論となりそうな気がする。筆者としては、AIプラグマティズムはAI技術を実際の影響や効能において理解するのではなく、AI技術が役に立つかどうかわからない状況で、「機械と人間」の「学習」のありかたを反省的に考えるプレ・プラグマティズムであることが望ましいと思う。哲学史において反省的に考える方法は、批判哲学や脱構築など、複雑怪奇な方法が多い。もっと単純に、子供たちが学習するように、近所の仲間と遊びながら失敗を繰り返して反省する、AIプラグマティズムはその程度の知的段階なのだと思う。グーグルやマイクロソフトは、豊富な資金で「近所の仲間と遊ぶ」ことを支援できたとしても、遊ぶ場所は彼らの会社の「近所」ではないし、彼らの会社の「仲間」とは限らない。AI産業が近未来の基幹産業となることは確実なので、「遊びながら失敗を繰り返して反省する」哲学的な実験を先行して、日本の産業社会も、カナダ(ディープラーニングを発明してリードしている)や英国(ディープマインド社が活躍する)のように、先手番(未来志向)の創造的プレーヤーでありたいものだ。
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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。
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