山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。ニンニクは収穫時期を読み間違えて、梅雨(つゆ)の収穫となった。完熟でおいしそうなのだけれども、葉は雨でやられて、乾燥保存が大変だ。ショウガは梅雨が明けてから植え付けよう。ニンジン、パースニップ(白ニンジン)、ビーツ、ダイコンの種まきも梅雨明けを待っている。晴耕雨読というよりも、夏の農作業は雨のほうが涼しい。書を捨て農耕をしようとしても、体力の限界がある。収入を確保する必要があるし、週末農夫程度がよい生活バランスなのだろう。多少は家計の助けになるし、娯楽としての支出は最小限であることも評価してもらいたい。ただし、無理な姿勢が多いので、健康にはあまりプラスにはならない。損得勘定は難しいものだ。
ニンニクの収穫=2021年7月2日 筆者撮影
戦後文学を知っている私たちの世代では、カール・マルクス(1818~83年)は革命的な思想家として、時代の踏み絵的な存在だった。マルクスの著作を何冊か、そして何度も読んだことがあるけれども、科学的な社会主義の考え方には大きな違和感があった。史的唯物論など全く科学的ではないし、資本論の数学はニュートンのレベルにも達していない。どこが科学なのか全く理解できなかった。しかし社会思想としては確かに迫力があって、19世紀末から20世紀にいたる戦争と革命の時代を的確に読み解いている。労働力や戦闘力が商品として売買される時代は、21世紀まで継続している。商品の市場における売買は、ある程度フェアに運営されているとしても、株式市場や金融市場は、周期的に恐慌を引き起こし、覇権国家や巨大企業における軍事力と資本の独占は、現在でもマルクスの想定の範囲内でしかない。社会科学が停滞しているときに、自然科学は急速に発展し、相対性理論や量子力学を生み出した。その発達した自然科学から、原子爆弾や半導体などの先端技術が実用化された。社会科学と称したものは、どのような社会技術を実現したのだろうか。
マルクスが書き残したものは、社会科学ではなく、社会技術かもしれないと気がついた。社会は科学の方法論で解明できるほど「単純」なものではなく、社会問題は山積みとなり、今すぐにでも社会問題を解決する方法を必要としている。共産主義革命は、社会問題の政治的な解決方法の一案であって、社会システムを変革する社会プロセスを提案している。マルクスは、人類で初めて、(社会科学ではなく)社会技術を思想として記述した天才だったと仮定してみよう。残念ながらマルクスが生きた時代には、社会技術の技術基盤が無かった。社会変革を政治プロセスで実現しようとして失敗したのだろう。発散する無理級数のような、未定義の永続革命論を信じるのであれば別の話だけれども、政治プロセスは新たな政治権力を生み出して、社会システムそのものは権力者に都合よいように再定義されただけだった。社会科学が不可能なのは、社会が複雑系であって、自然科学で成功した要素還元主義では原理的に理解できないからだ。複雑系の科学は、生物学すら十分に理解できない初期段階にある。進化論は科学ではなく、生物が生み出した生存技術として理解するほうが合理的だ。技術は科学とは異なり、原理的な整合性や真理の探究とは無縁で、その場しのぎの組み合わせ最適化を行う。だからといって、科学が技術よりも優れているとか、技術には科学が必要だというつもりはない。技術には数学とアート、そして技術思想があれば十分だ。
社会技術の技術基盤は、組み合わせ最適化の数学、リスクコミュニケーション、そして分散プロセス制御など、人工知能(AI)技術として急速に発展している。物理学が量子力学以降足踏みしているときに、AI技術はタンパク質高次構造予測や重力理論においても、大きな成果をあげている。20世紀が科学の時代であったとすれば、21世紀は技術の時代なのだろう。AI技術が社会技術の技術基盤となる可能性を、マルクスは知るはずがない。マルクスが取り組んだ経済の問題としては、金融商品を研究する金融工学が技術的方法論を積極的に取り入れている。しかし、マルクス以降の、例えばケインズにしても、指数関数的なシステムダイナミクスによる経済分析を「科学的」だと誤解している。筆者に言わせれば、優れて技術的な方法論なのだ。おそらく現時点で、ほぼ全ての経済理論が技術的な方法論、もしくは技術思想に支えられている。マクロ経済学とミクロ経済学の関係は、熱力学と統計力学の関係とは無関係で、システム工学とプロセス工学の関係というほうが正確なはずだ。マルクスにさかのぼって、社会技術としての経済理論を再検討して、例えば「AI技術による資本論」を再定義できれば、社会技術による社会問題の解決への道筋が見えてくるだろう。
本当に20世紀の共産主義革命は失敗したのだろうか。中国共産党は「AI技術による資本論」を米国に先駆けて実現しているかもしれない。こういった妄想を吹き飛ばすためにも、天才マルクスの再来が必要だ。「AI技術による資本論」は、資本論よりも難解な理論になるはずだし、マルクスが書かなかった続編も完成させる必要がある。科学では天才科学者が活躍する。技術ではGoogleやMicrosoftなど、営利企業の技術者集団が革新的な技術をリードして、強力な知的財産部門が権利を利益に還元する。「AI技術による資本論」に最も近いのは、GoogleやMicrosoftなどの巨大IT企業だとしても、彼らにマルクスの再来を期待することはできないだろう。巨大IT企業も、かつては小さなベンチャー企業だった。近未来の「AI技術による資本論」を実現するのは、先見的経営者が率いるベンチャー企業の技術集団だ。従って、「AI技術による資本論」は近代国家による計画経済ではないし、国家の死滅とも関係ない。人類の死滅に直面して、数千数万の社会問題群を、一つひとつ解決してゆく社会技術が必要とされている。「AI技術による資本論」は、その出発点となるだろう。
週末農夫は非常に限定的な農業技術しか使用しない。自分自身の目的のためには、つまり農作物を食べることが目的であれば、おいしく食べられれば十分だからだ。生産と消費が円環を作っている。週末AIプログラマーにとっても、最先端のAI計算機は不必要だろう。プログラムの目的が明確になれば、必要なデータも明らかになる。データの生産と消費の円環を、週末AIプログラマーでもある筆者は、「データサイクル」という技術思想で探索している。本稿では、マルクスの資本論を別格な社会(技術)思想として取り上げた。経済学でもその他多くの社会(技術)思想があるはずだし、社会思想としては経済学以外にも多くの蓄積がある。数千数万の社会(技術)思想を再検討すること、特許分析のように社会思想を分析することを考えてみよう。分析することが目的ではなく、分析によって何らかのヒントを得て、社会問題の解決に有用なAIプログラムを発明することが目的になる。できるだけ多くの人びとと、できるだけ多くのAIプログラムを発明すれば、それらの中には本当に役立つ社会技術も含まれるはずだ。自動車の自動運転や、監視カメラの個体識別に満足するのは、ごく少数の人びとに過ぎない。AI技術の可能性は、多くの人びとの多様な社会的な不満によって前進する。筆者としては、技術を無条件に肯定するのではなく、技術(の可能性)を肯定することで、技術を支配する社会的条件や限界を批判することをもくろんでいる。人びとの興味や好奇心がランダムであることが、批判のエネルギー源であって、週末農夫もそれなりに一役買っていることになる。
--------------------------------------
『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。
コメントを残す