山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。夏野菜が最盛期になっている。ほぼ毎日、友人たちと4人で食べている。サルたちにも多少分配して、それでも食べきれない。地元の産直に並んでいる野菜と同じで、スーパーの野菜とは異なる。ピーマン4種類、ナス6種類、キュウリ3種類など、天候リスク対策として多品種少量栽培をしている。味も異なるので、料理が楽しめる。
夏野菜=2021年7月24日 筆者撮影
昨日、2014年公開のSF映画「インターステラー」をみた。科学考証が正確で、ファミリー映画としてよくできた映画だと思う。しかし、どう考えても、物理学では地球を破壊できても、救えないだろう。だから、宗教性を消し去った「愛」の物語が、地球と人びとを救済する。SF(Science Fiction)ではなく、物理学も消し去ったMF(Mathematic Fiction)で、人類を救うことができるだろうか。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの主著『差異と反復』(河出書房新社、1992年)は、SF(知の虚構)でありながら、差異的=微分的と表現されるように、MFでもある。「差異と反復」には、アナーキズムへの傾斜はあっても、救済はない。差異を同一性から解放するというとき、プラトンに始まる西洋哲学の全てを転覆しようと企てている。先人がいないわけではない。スコトゥス、スピノザ、ニーチェの企てに「存在の一義性」を見ぬき、差異を同一性から解放する、同一性を差異から再構成することで、ヨーロッパ社会の歴史の全てを、差異を底辺として正しく転倒させようと企てている。なかでもスピノザは最重要なヨーロッパ社会のオルタナティブなのだけれども、スピノザの神は幾何光学の神であって、スピノザの「エチカ」は最高のMFでもある。
「存在の一義性」としての「差異」は、筆者の理解としては、「データ」として定立(再定義)される。従来のデータベースは、属性にデータを入力する。機械学習の時代になって、大量の「データ」から属性を再構成することが可能になった。技術はMFを後追いしている。データベースを自動構築するための大量の「データ」は、「存在の一義性」としてのデータのことであって、データ量の問題ではない。生物学分野での網羅的データが遺伝子データや医療画像データであるように、「存在の一義性」を突き詰めて再考する必要がある。例えば、自然言語理解の機械学習は、文章のデータベースから自動作成された、単語の「穴埋め問題」の正解率に関するデータベースによって大きく前進した。スピノザの「エチカ」は、人工知能(AI)の倫理としてのMFなのだと思う。
MFとしての「差異と反復」において、「差異」を微分法のレベルではなく、無限小や無限大のレトリックではない集合論のレベルで再考すると、「順位」の問題が問われていないことに気がつく。「順位」の問題はドゥルーズよりも旧世代のジャン・ポール・サルトル『方法の問題 弁証法的理性批判・序説』(人文書院、1962年)に「集列」(série)として明確に意識されていた。数は個数(基数)であるとともに順序(序数)でもある。数の理論は集合論の言葉で表現されることが多いことはよく知られていても、集合の濃度を表す基数が、順序数によって構成されることはあまり知られていないだろう。もしくは、常識的な意味での集合に、整列可能定理を公理として追加することで現代的な意味での集合論となる。
順序もしくは順位の問題は、意識の理論にとっても決定的に重要で、多くの生物個体は、場所を順序として理解している。微分法との関係では、順序は位相として、特に複素関数の微分で重要になる。生物個体も、順序を位相にコーディングしている場合が知られている(ネズミの脳の場所細胞など)。「データ」の問題としては、順序の有るカテゴリーと、順序の無いカテゴリーの問題として再考する場合、「差異と反復」においては、順序の無いカテゴリーとしての2項対立の問題しか取り扱われていない。順序の有るカテゴリーにおいて、ジャンケンのような「廻(まわ)る」順位も認めるとすると、従来は順序の無いカテゴリーと考えられていた対象間の関係にもMFの可能性が広がる。
MFとしての「反復」は、まさにドゥルーズが見ぬいたシミュレーションとして再定義される。機械学習においいては、深層学習のオートエンコーディングが「反復」の良い事例となるだろう。データベースから、自分自身のデータベースを再構築する問題を考えて、その途中で、どれだけ簡潔なデータベースとして表現できるか反復学習する。本質的な情報をできるだけ失わないように、データベースを簡潔でコンパクトなものとする「データマネジメント」のプロセスを自動化していると考えられる。筆者は臨床試験データベースで画像のモーフ(morph)、例えばイヌからネコへの画像連続変換、のようなシミュレーションを試したことがある。「データマネジメント」のプロセスを自動化するのは、オートエンコーディングだけではないことを指摘しておきたい。
さらに数学的な意味での一般化や抽象化を徹底しても、MFとしての「差異と反復」は地球や人びとを救うことはないだろう。しかし、人間中心主義やロゴス中心主義などのXX中心主義、もしくは民主主義国家や法治国家の「擬制」(にせものの同一性)が、未来への有望な選択肢ではないことを明らかにすることはできるかもしれない。SFやMFは、未来社会から見た現在の歴史なのだと思う。現在からみた過去の歴史は、歴史学としては批判の対象かもしれないけれども、大衆小説としては面白い。SFやMFも面白くても、予測が外れるかもしれないし、役に立たないかもしれない。しかし、面白ければ少なくとも技術は発展する。発展した技術によって、予想外の未来が実現する可能性もある。
筆者の思想的立場から考えると、アナーキズムはネガティブな法治国家のネガティブな人間中心主義にすぎない。スピノザほど強く「神すなわち自然」とは言い切れないけれども、ポジティブな人間周辺主義を志向している。数の実在を信じてはいるけれども、同じ程度に、神が存在しうる余地を残すべきだとも考えている。存在するかしないかということは、論理の問題ではなく、経験の問題でもなく、場合によっては信念の問題であり、本質的には確率論的な未決定として定式化できるはずだ。
MFとしての「差異と反復」がスピノザの世界に回帰するとき、らせん状に回転しながら未来の物語となるだろう。AIのエチカは、可能性を肯定する。エチカを発禁本とし、スピノザを反逆者として哲学史から排除しようとした哲学教授たちが作り上げた世界、アウシュビッツとヒロシマ以降の世界(ゲオルグ・ピヒトから引用)では、未来を肯定するMFが必要だ。未来の世界からアウシュビッツとヒロシマを再考して、人びとの理性の限界はカントが工夫したカテゴリー表にあるのではなく、想像したくない現実にあることを再確認して、それでも肯定的な未来があることを信じよう。AIがヒトの能力を超えるとすれば、それは専門家の能力であって、生活者の生活力ではない。生活力という未定義な能力は超えようがないけれども、生活の場が破壊されると、生活力は無くなり、AIが有利になる。生活の場は地球環境だけではない。認知症によっても生活の場は破壊される。MFとしての認知症の物語は、続編としたい。
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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。
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