п»ї 未来のミニマル社会主義『週末農夫の剰余所与論』第24回 | ニュース屋台村

未来のミニマル社会主義
『週末農夫の剰余所与論』第24回

2月 02日 2022年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o 株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

晴耕雪読、雪解けを待つ読書の季節だ。堀田善衛の『ミシェル・城館の人 第3部 精神の祝祭』は、28年前に購入して、最初の10ページで挫折していた。第1部から読むべきだったけれども、それでも今の年齢にならないと楽しめなかっただろう。現在は3部すべて読み終えて、原本となるミシェル・ド・モンテーニュのエセー(随想録)の半分、第2巻まで読み進んだ。堀田善衛のガイドが無ければ、エセーをこれほど楽しめたとは思えない。モンテーニュは自分自身を「観察」するという、前代未聞の文学的実験を行った。「観察」は、文学者である堀田善衛が見ぬいたエセーの真髄だと思う。モンテーニュ自身の「観察」から、16世紀フランスの光景が生き生きと伝わってくるから不思議だ。第2巻中段の難所「レイモン・スボンの弁護」という長大な宗教論に、「私が猫と戯れているとき、もしかすると、猫のほうこそ私を相手に暇つぶしをしているのではないだろうか」という、時代を超えた観察がまぎれこむ。

晴耕雪読『ミシェル・城館の人 第3部 精神の祝祭』堀田善衛、集英社1994年

「観察」はすぐれて現代的な科学概念でもある。量子力学は若きドイツの物理学者ハイゼンベルグが行列力学にオブザーバブル(測定可能な量)という斬新な概念を発見したことから始まった。複素数の行列の固有値が実数となる条件といわれても、ハイゼンベルグ自身も意味不明だったようだ。現在では、数学理論がきれいに整備され、計算値が正しいことは実験的に確認されている。しかし、現在でも量子力学は意味不明な部分が多い。

「観察」は、筆者の仕事の文脈では、臨床試験における観察試験と介入試験の区別となる。臨床試験では、検査をするだけでも介入とみなされる。介入試験のほうが、科学的仮説との相性がよいので、データ解析は容易になる。少なくとも、介入に注目すればデータの意味は分かりやすい。観察研究のデータ解析は、研究者の思い込みや、試験条件に起因するバイアスを除外することが困難で、医学的には立派な研究であっても、科学的には意味不明である場合が多い。

自分自身を「観察」するという、16世紀の文学的実験が、中世の世紀末という意味不明な時代において、17世紀フランスのデカルトにおける近代哲学に接続するのだから不思議だ。モンテーニュのようなキリスト教文化における個人主義は、宗教戦争や王侯貴族の派閥闘争への解毒剤として作用して、近代における個人主義的な自由主義へと社会を変革してゆく。デカルトに続く17世紀の哲学者、スピノザが無神論者であれば、モンテーニュも無神論者といわれておかしくはない。もちろん、モンテーニュもスピノザも、自分自身を含む人びとの、神への敬虔(けいけん)に疑いをもっていない。社会的な権威と、神への敬虔は別次元だと考えているだけのことだ。

近代を個人主義的な自由主義の時代だと考えれば、民主主義的な社会主義が実現しなかった現代は、近代の世紀末とも考えられる。専制的な全体主義国家や、SNS(ソーシャル・ネットワーク・システム)は社会主義ではない。無政府主義というとテロリストのイメージがつきまとう。しかし無政府主義は、社会変革をめざす社会主義思想でもある。「人新世」とも呼ばれる、覇権国家やグローバル巨大企業による自然環境の破壊は、地球規模で社会文化の合意なき変質をもたらしている。現代は、近代の世紀末としての乱世でもある。

未来の新文明が誕生するとすれば、環境破壊や社会問題への解毒剤となる思想が萌芽となることは確実だろう。そうでない場合は、地球や人類の未来がない。筆者はそのような思想の一案として、データ解析における積分論的アプローチから発想した「マージナリズム」周辺主義思想について考えている。具体的には、個人の集団としての組織の活動を、熱力学的な観測可能な状態量、組織の体積、組織の圧力、組織の温度などによって定量的に理解することをめざしている。もちろん、そのような試みは筆者の能力を大幅に超えているので、先人から学ばなければならないのだけれども、ロシア出身でベルギーの偉大なる科学者で思想家であったイリヤ・プリゴジン(1917-2003)ですら、構想段階からほとんど前進していない。

周辺主義を最も巧みに実現しているのは、渡り鳥のように思われる。渡り鳥の群れの行動を、個体識別や個体追跡することなく、生存環境が異なる別の場所で観察することで、周辺主義に関する何らかのヒントが得られるかもしれない。渡り鳥を群れとして観察する方法が、学問的にどのような意味があるのか気にしないことにしよう。近代の個人主義的な自由主義に、決定的に欠落している思想は社会主義思想だという仮定はありうるだろう。しかし、渡り鳥の群れの行動から学ぶミニマル社会主義は意味不明かもしれない。「観察」することを「オブザーバブル」として現代的に再解釈することは、近代的な合理主義から決定的に離別する、未来のデータ文明への出発点になることを期待している。

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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。

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