п»ї 自然な社会は不自然だから、不自然な社会を最小化してみよう 『WHAT^』第42回 | ニュース屋台村

自然な社会は不自然だから、不自然な社会を最小化してみよう
『WHAT^』第42回

2月 28日 2022年 文化

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

前稿「表現の場としての存在の不在/不在の存在」(2022年2月16日付、WHAT^第41回)に引き続き、「個人と組織が『自然』な状態にある」ことは、どういう意味なのかについて考えたい。逆に考えれば、「個人と組織が『自然』な状態にない」場合、個人と組織がとても不自然な法律によって存在を規制されている場合は、政治や宗教によって、何でもありうるという、意味不明な社会状況が想定される。ニュートン力学の自然観では、自然な状態は安定で、合理的な必然性がある状態と考えられていた。ダーウィンの進化論的な自然観や、量子力学の自然観は、確率的な変化を内包していて、完全に客観的な存在としての自然は近似的な素描となった。それでも、自然な状態は、人びとの恣意(しい)的な主観性とは別の存在として、人びとの共通言語としての役割を担い、現在でも(AI〈人工知能〉技術以前では)言語の自然な意味の土台となっている。

地球規模での社会問題が急増し、近代的な個人と組織の能力では問題解決が期待できない現状について、筆者としては、社会の存在の不在/不在の存在、社会が不在しているか機能不全となっている状態と考えている。民主主義社会の危機というほうが普通かもしれない。権威主義社会であったとしても、高度な技術とともに生活すること以外の選択肢がない現代の人びとにとって、技術をコントロールする社会が不在しているか機能不全となっている状態は同じだろう。高度な技術が、一部の個人や組織に独占され、人びとの生活が技術によって支配されている。支配的な個人や組織が「自然な意味での社会」を見失っていたとしたら、社会の存在の不在/不在の存在としか言いようがない、世紀末的な現状となる。「自然な意味での社会」においても、その自然はニュートン力学ではなく、論理的な善悪や真理は近似であって、確率的な変化を伴うことは言うまでもない。自然な状態がある程度安定していれば、近似でも安心できるけれども、急激に変化する場合は、近似は役に立たない。社会が不在しているか機能不全となっている現状での、「自然な意味での社会」における自然観が問題になる。そんな自然観は、おそらく誰も知らないし、意味不明なものとなるだろう。少なくとも、わかったようなことを言っている政治家たちの自然観ではない。

すべての政治家や、多くの哲学者たちから学ぶことができないとすれば、そのような意味不明の問題には、アーティストたちの問題として、「表現の場としての存在の不在/不在の存在」として、社会の底辺で生活しながら「いきる」ことから学ぶしかないだろう。

ミュージアム コレクションⅢ ART / MUSIC  わたしたちの創作は音楽とともにある=世田谷美術館(東京都世田谷区) (左から)アンリ・ルソー1906年、大竹伸朗1980年、ジャン・デュビュッフェ1961年

アーティストたちは、ART/MUSICによって生活の糧(かて)を得ながら、表現の世界でいきてきた。表現の世界で、毎日実験を繰り返している。アーティストたちが生きている限り、「自然な意味での社会」は存在しているはずだ。「自然な意味での社会」は、アーティストたちが生きやすい社会かもしれない。

筆者のように技術論に興味があると、不在する社会は、国家や巨大企業という、技術を独占する組織にとっての社会が問題となる。「自然な意味での社会」を、人類を含む動物たちの家族や「群れ」から、ボトムアップに考えることも可能かもしれない。しかし、進化論的な意味で、人びとの生活に不在する社会は、歴史を逆戻りしたり、再構築したりできる社会ではないだろう。枝分かれしてでも、どこまでも先に進むしかない。すなわち、「自然な意味での社会」は「自然」にあるものを発展させ、再発見することではなく、「自然な意味では存在しない、不在する社会」であって、国家や巨大企業などの巨大組織における社会の不在を意味している。その際に、組織は個人の集合や所有物ではなく、組織は組織によって構成され規制されることに留意しよう。すなわち、組織を構想して作り出すのは個人の役割であって、「個人と組織が『自然』な状態にある」のは、個人が自然な状態にあって、組織を作り出したのちに、組織が自律的な運動を始めることと理解される。

もう少し具体的に議論しておこう。近代自由主義は個人と国家や巨大企業の自由主義だった。国家や巨大企業において、個人は独裁者となるか、組織への隷属を強いられた。国家や巨大企業は相互に競争し迎合しながら、競争ゲームを展開しているけれども、そこには共通の社会理念や個人の生活はない。組織活動をより多様なものとして、組織間での進化ゲームを展開できるようになることが、不在する社会の空白から「自然な意味での社会」への枝分かれとなるだろう。多様な組織活動は、利益を最大化する株式会社と、利益をめざさない非営利法人(NPO)の間に、無限に想像することができる。人口減少社会にあって、法的に認知された組織を指数関数的に増加させることを考えてみよう。法的に認知された組織で働くのは個人である必要はなく、AIロボットのほうが組織活動に向いているだろう。組織間の利害を調節するのも、国家としての法律や税務を理解するAI技術となるだろう。自然な社会の未来は、大いに不自然であることを、人びとはどこまで容認できるだろうか。AIロボットが働く組織であっても、組織の誕生と終焉(しゅうえん)の物語は、個人の自然な意味での想像力に依存しているはずだ。その物語が、地球や人類の終焉とならないように、アーティストたちが生きやすい社会について考えてみた。誰でもがアーティストとなりうるし、アーティストの社会は、アーティストの生き方から推察して、必要最小限の社会となるだろう。

自然な社会の必要条件は、誰でもがアーティストとなりうる、アーティストたちが生きやすい社会だと仮定しよう。さらに、自然な社会の十分条件について考えてみたい。少なくとも、言語や数字などは社会で無条件・無差別に共有されることが、自然な意味で望ましいはずだ。巨大な素数は暗号処理に役立つからといって、個人や組織が独占できるものではない。暗号処理に使う巨大な素数は、現在は公開されないだけで、独占されているわけではない。乱数はどうだろうか。乱数そのものは独占できないとしても、乱数を発生させる装置やアルゴリズムは、特許権を主張しうる。タンパク質の立体構造を予測するアルゴリズムや、AIプログラムを高速に処理する計算機は、特定の営利企業に独占されている。少し考えただけでも、自然な社会の十分条件はとても難しい。逆に考えて、数学という特殊な知識を表現する場が、自然な意味での社会とは無関係としたら、とても恐ろしい状況だということはわかる。AI兵器が急速に発展し、AI兵器の使用を抑制できない現在の社会は、その恐ろしい社会の入り口でしかない。自然な社会の十分条件は、不確定で不自然ですらある。不確定な制約条件の場合、社会が機能不全とならないようにするためには、社会的な機能をあらかじめ最小化することが望ましい。本論は、明らかに筆者の能力を超えた議論であって、もしかしたら人類の能力すら超えているかもしれない。だからこそ、アーティストたちは意味不明な思考実験を繰り返している。

最後に、最小化された社会は、無政府主義(アナーキズム)や国家の死滅のような、ラディカルで政治的な社会を志向していないことを追記しておきたい。政府や国家のような巨大組織は(人類が終焉しない限り)存在し続けるし、不可欠でもあるはずだ。本論では、組織と社会を明確に区別して議論している。しかし、社会制度を実装するのは組織であるため、制度化された社会機能は組織の問題であって、自然な社会は制度化されていない社会機能として、不自然な組織とともにある社会の機能不全としての問題を考えている。制度化されていない不自然な社会の機能不全を最小化する社会は、ラディカルで政治的な社会とは異次元の世界である。

WHAT^(ホワット・ハットと読んでください)は、何か気になることを、気の向くままに、イメージと文章にしてみます。

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