山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
農園における今年の春は、雪国の春で、雪解けとともに一気に早春がやってくる。堀田善衛の『方丈記私記』(ちくま文庫、筑摩書房の刊行は1971年)も、そろそろ読み終わるころだ。日本の中世における、平安京の乱世を、安元3年(ユリウス暦1177年)の京の大火災から768年後の1945年の東京大空襲、そして戦後への乱世に重ね合わせた。文学者がジャーナリストのように荒野を歩いて生きた時代の文学として、秀逸だと思う。残念ながら、戦後の乱世は終わっていない。乱世においては、目を覆いたくなるような暴力や災害だけではなく、にせ情報や謀略が錯綜(さくそう)しているので、ジャーナリストのように歩いて目撃することからしか、文学が始まらないのだろう。前稿『週末農夫の剰余所与論』第24回では、「観察」することを「オブザーバブル」として現代的に再解釈することは、近代的な合理主義から決定的に離別する、未来のデータ文明への出発点になることを期待している、と結んだ。その2週間後に、核武装した国家が、軍事力で他国の原子力発電所を不法占拠するという、末世が続いている。未来のデータ文明は始まらないかもしれない。だからこそ、1万年以上過去の、太古のデータ文明から学んでみたい。
太古の文明といっても、幻のアトランティスのような、高度な科学技術を有する宇宙人の文明を想定しているのではない。アトランティスとは言わないまでも、高度な文明というと、大河のほとりで、幾何学や天文学を駆使して巨大遺跡を造り、文字や数字を発明して、農耕生産の剰余価値を鉄製の武器に転嫁(てんか)する都市文明を想定しがちだ。しかしここでは、発掘調査の地域的な偏りや、宗教や政治の歴史観によってゆがめられることのない、先史時代のことを考えている。日本でいえば、石器時代と縄文時代のことで、弥生時代以降の歴史は、別途考えてみたい。先史時代とはいっても、70万年以上前の北京原人は火と石器を使っていた。もう少し時代をさかのぼって、縄文時代では、地域ごとの文化圏で、語り継がれた豊かな物語があったことは確かだ。先史時代には高度な文明が無かったと単純に結論はできない。なによりも、縄文時代の人類が、1万年間の安定した定住社会を運営管理していたということは、それ自体で高度な社会であって、いまだ3000年程度しか経過していない、乱世続きの有史時代とは比べ物にならない。
先史時代における人類の活動の記録は、知識人によって虚飾されやすい文字による物語ではなく、語られることもない「データ」としてしか残っていない。その「データ」だけから、高度な文明を再発見できるのかということを考えている。論理的な論説を仕事にする専門家の方々であれば、文明をいかに定義するのかが最初の問題であって、たやすく論争となるだろう。自然科学はもう少しおうようで、新しい発見から学ぶことになる。
日本においては、世界で最も正確な年代を含む「データ」として、福井県水月湖(すいげるこ)の年縞(ねんこう)と呼ばれる縞(しま)模様が詳しく研究されていて、10万年間の気候や環境の変化が詳細に解読されている(『人類と気候の10万年史』〈中川毅、講談社ブルーバックス、2017年〉)。気候や環境の変化が、人類の活動に大きな影響を与えることはいうまでもない。先史時代においては、氷河期と氷河期終期に特徴的な荒々しい気候変動があり、それでも人類は生き延びてきた。縄文時代には、比較的安定して温暖な気候になったとはいうものの、1万年の間には、何度も異常気象や自然災害に襲われただろう。そのような逆境を生き延びる知恵は、高度な文明によって支えられていた可能性が高い。どの程度の犠牲を払って生き延びたかということは、人口データとして理解できる。ところが、先史時代の考古学においては、人口を推定することが案外難しいようだ。最新の遺伝子解析技術などによって、1万3000年前の縄文早期が2万人程度、縄文時代が10万人以上(ピークが紀元前6000年ごろの24万人)、弥生時代では100万人以上と推定されている(『ヒトはこうして増えてきた―20万年の人口変遷史』〈大塚柳太郎、新潮選書、2015年〉)。残念ながら、人口データが不十分であるため、気候や環境の変化と人口の関係は推測の段階を出ていない。
人類の活動が、地球の気候や環境に大きな影響を与えるようになった「人新世」については、産業革命以降の「データ」を使って大規模なシミュレーションが行われている。先史代から引き継がれている「気候や環境の変化が、人類の活動に与える影響」が理解できるようになれば、人口変動も含めて、より正確な未来シミュレーションが可能になるはずだ。安定した気候における乱世と、激しく変化する気候における安定した社会、いかにも論理的に矛盾する物語をつなぐヒントが先史時代の「データ」に隠されているのではないか。例えば、年稿には膨大な量の環境マイクロバイオーム(環境中の網羅的微生物遺伝子解析)データが含まれている。「人新世」においては、ヒトの常在性微生物の遺伝子も土壌から発見できるかもしれない。縄文人は、クリなどを栽培して里山を運営管理し、貝などをまいて里海を運営管理していた。縄文時代であれば、環境マイクロバイオームのデータから、人類の活動の痕跡を見いだして、当時の人口が年単位で推定できるようになるかもしれない。さらに、環境マイクロバイオームによって、微生物環境の多様性や環境ストレスを推定することは、多様性や環境ストレスを再定義する発見につながるかもしれない。太古のデータから学ぶことは尽きない。
『世界遺産になった!縄文遺跡』(同成社、2021年) 筆者撮影
「北海道・北東北の縄文遺跡群」(Jomon Prehistoric Sites in Northern Japan)が2021年に世界遺産となった。先史時代、すなわち文字による記録が無い時代の遺跡として、従来の概念を覆す大発見で、関係者の皆様に敬意を表したい。私たちは愚か者の子孫ではない。ただ、太古から少しも賢くなれなかっただけだ。
1万年前のことが理解できないようでは、1000年後のことがわかるはずがない。では、政治家は、10年前のことをどの程度思い出して、1年後のことを考えているのだろうか。岸田内閣の「新しい資本主義」では、バイオ技術、量子技術、AI(人工知能)、次世代医療、クリーンエネルギーに重点投資すると表明されている(2022年3月8日に首相官邸で開催された第4回新しい資本主義実現会議)。MRI(磁気共鳴画像診断装置)は代表的な量子技術の産業応用で、X線につぐ次世代医療技術であり、20年前には日本の東芝、日立、島津がシーメンス、GEとともに大きな存在感があった。現在でもMRIの基礎技術は発展している。同じ核磁気共鳴の原理を使い、タンパク質の立体構造を解明するプロジェクトは、理化学研究所のチームが世界をリードしていた。現在は、グーグル傘下の英国企業が、最先端のAI技術でタンパク質の立体構造を予測することに成功している。タンパク質の立体構造予測は、創薬に決定的な影響をもたらす。遺伝子情報を解読するDNAシークエンサーの開発競争でも、日本の企業は大敗した。中国や米国の軍事技術に追いつこうとするぐらいなら、現在、産業分野で最も役立っている科学技術において、再度、存在感を示すほうが現実的だし、成功確率も高い。どのような大量破壊兵器や暗号技術よりも、本当に効果のある認知症の治療薬のほうが、国家レベルの安全保障に、戦略的に寄与できるだろう。「世界遺産になった!縄文遺跡」を祝福する気概を持って、この乱世を生き延びてゆきたい。
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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。
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