п»ї デジタル分解能のディストリビューション 『みんなで機械学習』第24回 | ニュース屋台村

デジタル分解能のディストリビューション
『みんなで機械学習』第24回

7月 13日 2023年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o株式会社ふぇの代表取締役。独自に考案した機械学習法、フェノラーニング®のビジネス展開を模索している。元ファイザージャパン・臨床開発部門バイオメトリクス部長、Pfizer Global R&D, Clinical Technologies, Director。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

◆制作ノート

英国の経済学者エルンスト・シューマッハー(1911~1977年)の「スモール イズ ビューティフル」における中間技術の提案を、「みんなの機械学習」として実現するため、「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」という拙稿を連載している。前稿では、チャットGPT以降の第4次AI(人工知能)ブームに、第2次AIブームの国産技術で味付けして、DTx(デジタルセラピューティックス)にも言及して、日本が先回りするシナリオを紹介した。「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」は途中の画像以降なので、制作ノートに相当する前半部分は、飛ばし読みしてください。

「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」のゴールは、結論を論理的に構築することではなく、生活世界において、データの世界との共存・共生・共進化に希望を実感することにある。近代的なモノの価値を問う経済から、コト(サービスなど)の意味を重要視する経済への移行を時代背景として、近未来のデータサイエンス テクノロジー アンド アート(データの世界)が、人類の文明論的な変革をもたらす夢物語を、少なくともディストピアとはしない、複数の探索路を切り開こうとしている。物語のゴールにおいては、意味が認知される以前の「データ」そのものが、みんなの機械学習によって、「言語」とは別の、文明の道具になるだろう。

◆学習理論と教育哲学

機械学習について考えているうちに、脳の学習機能や、教育学での学習理論が気になった。図書館での飛ばし読みでしかないけれども、脳の学習機能の説明では、脳の記憶機能の説明が大半で、運動学習が多少追加されている程度だった。学習理論の大半は、統計的機械学習やパーセプトロンの説明だった。新しい知識という意味では、ほとんど得るところが無かったので、教育哲学をのぞいてみたら、こちらは米国の哲学者ジョン・デューイ(1859~1952年)の話ばかりだった。要するに、脳の学習機能については、ほとんど解明されていないし、教育哲学としては、AI技術や機械学習は全く考慮されていない。公的な教育において、AI技術や機械学習をどのように位置づけるのかという問題は、技術的な問題というよりも、教育の理念から再検討すべき大問題だろう。米国流のAI<教育哲学>と、中国流の教育<AI哲学>は、政治哲学の問題でもあって、覇権国家の利害の対立以上の深い議論は期待できず、AI教育や教育AIにはディストピア以外の未来は無さそうだ。

◆知識ネットワークのニッチ アンド エッジ

現在の機械学習は、コンピューターがデータを学習して、人間が理解できる言語で、意味や価値が付随した「知識」表現する技術であって、人間が知識を学習する学習行動とあまり関係がない。前稿で紹介した第2次AIブームでは、知識ベースを使って、論理的に推論するという意味では、人間の学習に近かった。当時の知識ベースは、論理処理がしやすい論理的表現だったけれども、現在の機械学習は、データによる予測結果を集積したもので、人間が学習しやすいように、知識ネットワークとして表現される。

ビジネスにおいて知識ネットワークは、前提条件を変化させながら、ある状況での判断や行動を最適化する「最適化問題」に利用される場合が多い。最適化とは言っても、リスクとベネフィットのバランスなど、複雑な判断が要求されるので、単純な統計モデルでは役に立たない。例えば自動車の自動運転において、現在のAI技術は、交通事故の責任問題を除けば、人間並みの性能が期待できる。人間が操作する技術的な課題のほとんどは、AIでも同等か、同等以上の操作が可能になるだろう。ビジネスにとって意味や価値がある、純粋に技術的ではない課題を探すのは難しいかもしれない。心理的な問題であっても、言語表現によるかなりの部分が、技術的に対応可能だ。特許などの発明・発見は、課題が技術的であっても、偶然や失敗から学ぶ人間の学習機能は、容易にはAI化できそうもない。

知識ネットワークから、偶然に、もしくは信念にもとづいて学習する方法を、筆者なりの表現で、「ニッチ アンド エッジ(N&E)」もしくは、「愛と冒険の物語」と呼んでいる。遺伝子ネットワークにおいて、その中心となるハブは、生命維持の根幹であるため、医薬品の対象にはなりにくい。ネットワークの末端(スポーク)はたくさんあるけれども、変化が激しい領域は注目に値するので、特に「エッジ(冒険領域)」と呼んでいる。ハブとスポークの中間に、ネットワークの調節機能を担う、中間層が見いだされる場合が多く、医薬品のターゲットとなる確率が高いこともよく知られている。そのような調節ノードを「ニッチ(愛の領域)」と呼んでいる。そのような注目すべき領域を、知識ネットワークの構造から探索する試みだ(※参考1:「愛と冒険」に関する「ニュース屋台村」過去記事=文末=参照)。位置の離れたエッジが結合すると、知識ネットワークの構造がダイナミックに変化する。特許などの発明・発見につながる、知識ネットワークにおけるイノベーションのモデルになりそうだ。

◆デジタル分解能のDX

最近のAIブームは、チャットGPTの登場でAIバブルのような状況になっている。大量の資金がAI開発を加速していることは確かだ。経済的には、いつかはAIバブルは収束するのだろう。しかし、AI技術がもたらす社会的なインパクトは、むしろこれからが本番で、破壊的な社会変革となるのか、すでに破壊された近代社会の終焉(しゅうえん)となるのか、予測は困難だ。株価の変動のように、予測が困難な状況においても、確実に儲ける方法があるとすれば、人間の取引よりも早い、ミリ秒オーダーでのアルゴリズム取引だろう。もちろん、アルゴリズムにバグ(間違い)がある場合は、修正が必要で、他社のアルゴリズムに負けないことが前提条件となるので、儲かるのは投資家ではなく、IT企業かもしれない。

情報技術(IT)は、アナログな通信技術から始まり、コンピューターの時代となって、デジタル技術にほぼ完全に変身し、これからは量子技術の時代が始まろうとしている。データサイエンスやAI技術は、デジタル・ネイティブなIT技術だ。IT企業を中心として、政府や産業界ではDX(デジタル・トランスフォーメーション)推進が、経済的な成長戦略と位置づけられている。印画紙によるアナログ写真から、デジカメへの移行を思い出してもらえば、デジタル技術は、時間分解能や空間分解能に優れているだけではなく、経済的なメリットも明らかだ。しかしDXにおいては、ミリ秒以下の時間分解能の活用と、その社会的な影響について、あまり想定されていないように思われる。データサイエンスやAI技術では、大量のデータを必要とする。中小企業のDXにおいても、ビジネスに関連するデータを取得・整備するコストが問題となる。デジタル分解能をうまく活用すれば、大量のデータを低コストで取得できる。

具体的に考えてみよう。健康データの分野では、ミリ秒以下の時間分解能データや、ミリメートル以下の空間分解能データを活用する。最近のスマートウォッチは、心拍数を測定できるものがあるけれども、心拍と同期して、ミリ秒以下の心血管データを収集する。空間分解能も、半導体レーザーを使えば、ミクロンオーダーのデータが容易に取得できる。スマートウォッチのような安価なデバイスを用いて、1秒以下で、膨大な量の健康データを取得できる。あとは機械学習で意味のあるデータを探索するだけだ。従来の統計的な方法では、人間が判断するため、ほとんどが意味のないデータを探索するモチベーションが無かった。データは安価でも、データ解析が高価だった。現在では、パソコンが1週間かかって探索したとしても、そのコストは容認できる範囲だ。

経済データの分野ではどうだろうか。金融や商品取引のような、直接的で大量の経済データを取得するのは困難だ。経済状態を推定するためのオルタナティブデータであれば、デジタル分解能でのデータ取得の可能性がある。例えば、非可聴音域も含む地域の音環境データから、経済状態、特に経済政策の効果を評価することは可能だろう。観光振興の場合は分かりやすいけれども、経済格差対策や貧困対策の場合は、独創的な工夫が必要だろう。いずれにしても、人間の感覚を超えたデジタル分解能の世界における、機械学習によるデータ解析の試行錯誤を繰り返すことになる。

人間が経験したことのない、デジタル分解能の世界における機械学習は、個人の「こころ」や、集団の「表現の場」に、大きな影響を与える可能性がある。変化が急速で大きい場合は、適応能力の個体差も大きく、病的な状態と考えられるかもしれない。ほとんどの人びとが適応できず、人間の種として、病的な状態になるリスクもある。しかし、筆者としては、アウシュビッツとヒロシマ以降の人間は、種としてすでに病的な状態にあり、認知症とともに生きている状態と考えているので、デジタル分解能の世界を恐れる理由はないと考える。種の絶滅が100年後に迫っていたとしても、デジタル分解能の時間感覚では、3.2×10^12(10の12乗)ミリ秒という、問題を解決するのに十分な時間がある。種としての暴力性が病的な状態になったのは、アウシュビッツとヒロシマ以降であったとしても、哲学として、哲学の自由の問題として病的な状態になったのは、デカルトの近代合理主義哲学以降だとすれば、すでに300年以上の試行錯誤の時間があった。筆者の独断と偏見で、「哲学の自由」としての哲学が思考停止に陥ったのは、職業としての哲学教授が出現してからだろう。哲学の自由と、職業としての哲学教授は矛盾した概念で、精神的に病的な状態にならない限り、両立しない。デカルトに続く、スピノザやライプニッツが、なぜどのようにしてデカルト哲学を批判したのか、本稿のスコープ外となるので別の機会に考えることにして、あり得たかもしれない別の近代のヒントになりそうだ。300年の思考停止から目覚めるのは、機械学習から学習する「哲学の自由」、もしくは、人間の本能としての学び・遊びを、哲学教授たちから解放して、100万人(以上)の「みんなで機械学習」する夢物語をあきらめないようにしよう。

◆チャットGPTに先回りする作戦

チャットGPTの発明は、電卓やスマホの発明よりも大きなインパクトがありそうだ。人間は言語能力において、他の動物よりも優れていると考えていた。チャットGPTの言語能力は、実務能力として、コールセンターなどの知的労働者の水準に達し、言語を使ったサービスコストは激減するだろう。チャットGPTは、AIが言語能力を獲得したのではなく、ディープラーニングという機械学習の方法を、文章の穴埋め問題に適用した結果に過ぎない。教師レベルのAIを作成した後に、ランダムに試行錯誤する生徒レベルのAIを、膨大にシミュレーションしている。もし、チャットGPTが言語能力を獲得したかのように感じるとすれば、それは、人間が言語能力を獲得するプロセスと、偶然なにかの一致があったのだろう。とにかく、人間にとって、言語能力は特別なものなので、社会的には、AI将棋とは比べようもない衝撃となるはずだ。

筆者の青年時代は、日本の戦後文学が熱く語られ、ドストエフスキーやトルストイなどのロシア文学が、日本人に愛された時代だった。当時はスーパースターだった、吉本隆明という文芸評論家は、『言語にとって美とは何か』『心的現象論』『共同幻想論』などの思想書を、戦後日本の状況において、世界的に見てもオリジナルな思想を、時代に投げかけていた。現在読み返してみると、筆者には、文学部工学科の文章のようだった。この文学理論は、チャットGPTに欠けている、言語表現の工学的なモデル(モデルはひとつとは限らないけれども)のように思えた。チャットGPTに「言語にとって美とは何か」を追加したら、すぐれた文学的作品を生成するという意味ではない。『言語にとって美とは何か』をよく読んで、文学の学習における要点を整理したら、チャットGPTよりもはるかに効率よく、言語能力(と思えるようなもの)を獲得できるだろう。もし、100倍効率が良ければ、パソコンを使って、数日で、人間並みの言語能力の機械学習ができるかもしれない。文学部工学科の言語表現理論は、哲学や思想として考えれば、ひとつの実験にすぎない。筆者の未熟な読みでは、吉本隆明の思想は、近代合理主義を無批判に受け入れて、古代と現代を文学で接合した「観念論」だと思う。特に、空間性と時間性を、ニュートン力学のように「物理的」な実体として記述する、デカルト風の座標図式は、カントの純粋理性批判を批判的に検討した哲学とは思えない。ニュートン力学を観念論だというのだから、唯物論は量子力学の意味不明な世界の話で、吉本隆明にとっては、何が批判されているのか、意味不明かもしれない。ニュートン力学は観念論であっても、ニュートンと争ったライプニッツの微積分学は、数学的に整備され、現代の物理学において不可欠な道具になっている。少なくとも、吉本隆明の言語表現理論は、数学的な整合性を重要視する、理学部的な理論ではなく、工学部的理論として、当時は文芸批評に役立つ理論であり、現在では、チャットGPTの先回りに役立つAI理論としての可能性がある。

◆機械学習から学習する積分的思考

連載のゴールにおいて、「意味が認知される以前の『データ』そのものが、みんなの機械学習によって、『言語』とは別の、文明の道具になるだろう」、といっている意味は、言語に意味があるのではなく、言語以前のデータに意味があるけれども、人間はデータの意味を直感的には理解できないということだ。言語に価値があるのではなく、言語以前の生活に価値があって、言語はその価値を表現しているという考え方に近い。そうはいっても、文学の世界では、言語における意味や価値が、意味や価値そのもののように仮構されて物語になる。文学の倒錯は、チャットGPTで無批判に増産・増幅される可能性がある。チャットGPTを教育現場で適切に使うためには、生徒の批判精神を養成する必要があるという議論がある。正論だとは思うけれども、批判精神というものが、近代合理主義の産物であって、言語の世界に過剰に依存することの危険性への反省がない。法治国家や、権威主義国家は、言語に依存して成立している。自然災害やウィルスのパンデミックなど、人間社会に関係しているというだけの理由で、言語では制御できない現象であっても、政治が介入する。量子力学や不完全性定理など、論理や科学的理解の限界など、関係なく、言語による批判精神が語られるのは、哲学を言語ゲームにまで格下げしてしまった結果なのだろうか。

学習するということは、行動であって、記憶するというような、脳の認知機能に単純に還元できるものではない。行動を伴わない、コンピューターの機械学習は、広義の自動化されたデータの前処理技術であって、人間の学習とは無関係だ。しかし人間は、機械学習から学習することができる。学習行動とは、学習のための環境設定から、学習結果を試してみることまで、場合によっては集団での行動も含む、複雑な学習プロセスであって、学習プロセスを最適化することは可能であっても、常に最適解があるとは限らない。特に、機械学習のような、人間には直感的に理解し難い、大量の「知識」から学習する場合は、積分的思考が役に立つ。

筆者のように、データ解析の仕事をしていると、漸近(ぜんきん)的な最適解の探索が実務の中心になる。計算である程度目途が付く場合と、論理や経験で、大雑把に試行錯誤する場合がある。計算法としては、1970年代から2000年ごろまでは、微分的なニュートン・ラフソン法が主流だった。変数が少なく(経験的には10以下)、方程式が解析的に記述可能であれば、最適解が再現性良く求められる。そうすると、論理や経験的判断も、微分的になりやすい。微分的な思考とは、原因究明型で、特異的な細部にこだわる思考法だ。問題点を論理的に整理して、最適解の近傍を明確にしてから、説得力のある正解を、例外が説明可能であることなどを理由に正当化する。一方で、変数が極端に多くなったり、個体差が大きくて、例外的なデータなのかどうか判断しかねたりする場合など、微分的なニュートン・ラフソン法ではうまく計算できなくなる。そのような状況では、大雑把な論理的議論も説得力がなくなる。このような状況であっても、データが大量にあれば、MCMC法(マルコフ連鎖モンテカルロ法)という積分的な計算法が普及して、2000年以降には、比較的容易に最適解を計算できるようになった。最適解とはいっても、ベイズ統計においては、最適な分布という意味なので、微分法とは意味が異なる。それでも、パソコンで10分ほど計算して、安定した解に収束するのだから、とても驚いた記憶がある。

積分計算とはいっても、乱数を使った確率積分のことで、原理はとても単純だ。円の面積を計算するとき、一様乱数を使って、円の内側にある点の数と、外側にある点の数を数えるだけで、概算ができる。この計算法では、細部(特異点)にはこだわらないことと(周辺だけを見ていればよい)、次元数が増えても計算が複雑にならないという特徴がある。積分的な思考では、外から見る目で大局をとらえて、中心部の複雑な構造にはこだわらない。知識ネットワークの場合、外から見れば、末端のスポークだけが見えて、スポークの中でも、成長点(変動の大きい部分)に注目すればよいので、概要(特徴または個性)をとらえるのがとても簡単になる。積分的思考に役立つのは、空間を拡大することで、大きな空間の中に問題群を位置づけて、外から全体の構造を見やすくする。現代フランスの天才数学者アレクサンドル・グロタンディーク(1928~2014年)以降の数学では、空間概念を代数化(数学的演算によって構成可能に)してしまった。知識ネットワークのような、離散的な構造であっても、数学的演算が定義できれば、空間を構成できて、空間を拡大することもできる。ネットワーク上の演算は、リスト構造上の演算(かつてAI研究の中心的役割だった、LISPというコンピューター言語に実装されている)からの類推で、グラフ構造上に定義できるだろう。しかし、実用性も含めて、AI研究への応用はこれからの課題と思われる。

チャットGPTの衝撃は大きいけれども、人間の言語能力を超えるものではない。数学だけではなく、渡り鳥の方向感覚や、植物の菌糸を介したコミュニケーション能力など、人間の言語能力を超えた能力は多数考えられる。機械学習から学習するということは、これらすべての可能性を含んでいる。本当のAI物語は、文学の表現力を超えて、デジタル分解能で語られるのかもしれない。AI技術が、近代的な意味での、人間の精神の限界を超えるとすれば、間違いなく、一人の人間ではその衝撃を受け止めることはできなくて、みんなで学習すること、みんなで行動することが不可欠になるはずだ。独占企業や覇権国家の特殊詐欺に騙(だま)されることなく、みんなで機械学習をして、データ文明に先回りしよう。

ランダム行列の固有値「円則」(『ランダム行列の数理と科学』〈森北出版株式会社、2015年〉)

『スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル』

1   はじめに; 千個の難題と、千×千×千×千(ビリオン)個の可能性

1.1 個体差すなわち個体内変動と個体間変動が交絡した状態

1.2 組織の集合知は機械学習できるのか

1.3      私たちは機械から学習できるのか

2   データにとっての技術と自然

2.1 アートからテクノロジーヘ

2.2 テクノロジーからサイエンス アンド テクノロジーへ

2.3 データサイエンス テクノロジー アンド アート

2.4 データサイクル

2.5 データベクトル

2.6 局所かつ周辺のベクトル場としてのデータとシミュレーション

3  機械学習の学習

3.1 解析用データベース

3.2 先回りした機械学習

3.3 職業からの自由と社会

3.4 認知機能の機械学習とデジタルセラピューティクス(DTx) (前稿)

3.5 学習は境界領域の積分的探索-ニッチ&エッジの学習理論(本稿)

コンピューターの機械学習は、広義の自動化されたデータの前処理技術であって、人間の学習とは無関係だ。しかし人間は、機械学習から学習することができる。小学校における学習は、社会の教育システムに組み込まれた学習であったとしても、AI技術が社会システムに大きな変革をもたらす時代においては、小学生としても機械学習を無視することはできない。算数や国語のように、機械学習の教科ができるかもしれない。学校教育として、教師から与えられる学習ではなく、生徒の自発性を育む自由学習や体験学習もあるけれども、機械学習の学習は、そのどちらのパターンにもなじまないように思われる。AIが教師役になるのは論外だし、AIの機能は人間のスピード感覚を超えているので、無防備に体験していたら、ゲーム依存症のように、子供たちの脳機能が障害を受けるかもしれない。未知の分野なので、実践的な方法として、理解能力や感覚が衰えた老人が、率先して機械学習を学習してみて、その安全性と有効性を検証してみてはどうだろうか。筆者が生業とする、新薬の臨床試験から発想した提案だ。もちろん、老人とはいっても、むやみに人体実験することは許されない。事前の十分な検討の後に、老人にも分かりやすく説明して、自由意志で参加する。自由意志を否定する哲学者や、契約関係が重要だと考える弁護士など、いろいろな立場があったとして、筆者としては、経済的な対価を含めて、有償で参加したい。

人間の学習は、高度に進化した行動であって、多くの場合、社会的行動となる。学習のプロセスを、CAPDサイクル(筆者が提案している、PDCAサイクルをAI技術により半位相早めたCheck,Action,Plan,Doサイクルのこと)として明示的に定義して、学習環境の整備から、学習結果を試してみることまで、段階的に何度もサイクルを廻(まわ)すことで、学習を行動レベルで試行できるようになる。ちなみに、現在の新薬臨床試験は、PDCAサイクルを3回廻して承認申請する、古典的かつ固定的な方法であって、AI技術を取り入れたM&A(Modeling and Simulation)の議論が始まった段階でしかない。「みんなで機械学習」は、中小企業における機械学習のビジネス応用を模索している。学校教育も「みんなで機械学習」する実務課題になりうるし、実用性を重視するビジネスよりも、未来志向で先回りしやすいかもしれない。老人たち自身の、医療や介護の現場にAI技術を導入する、AIセルフサービスの実装も、臨床試験の応用になりそうだ。AI倫理の議論は、AI臨床試験の倫理に関する議論として、正当に位置づけることができる。

機械学習によって、爆発的に増加しているデータが、知識ベースとして整備され、経済活動に限らず、さまざまな社会活動に利用される時代となる。従来の知識とは異なり、知識ベースは具体的で個別的な知識であって、自分自身の体調に関する知識や、地域の経済データに関する知識など、個別的な事例数に相当する知識ベースが作成される。類似の知識ベースは融合もしくは接合されて、大きな知識ネットワークの空間となる。遺伝子ネットワークのような、大規模ネットワークの解析方法が工夫され、ネットワーク末端のスポークと、ネットワーク中心のハブに加えて、その中間層に興味深い調節機能が集積する事例が多く知られている。筆者がこの分野で仕事をしていた時に、変化が激しいスポークが集まっている成長点の近くにある調節ノードをニッチ、ニッチに接続するスポークをエッジと名付けて、新しい知識の発見ツールとしていた。ニッチ アンド エッジで、愛と冒険の物語となる。10年前のパソコンで、大規模ネットワークを作図するのに1週間程度かかり、筆者自身が愛と冒険の物語を読み取るのは1日程度で、知識ネットワークを修正して再度作図する、試行錯誤の繰り返しだった。現在では、より効率の良い知識ネットワークの作成方法、フェノラーニング、を工夫しているので、作業時間は逆転して、パソコンが1時間、人間が半日の試行錯誤を繰り返すことになるだろう。

最近のAI将棋や生成AIでは、人間による判定もAIによって自動化され、試行錯誤が何万回も繰り返される。ニッチ アンド エッジのように文学的な判断基準であっても、ネットワークの表面(スポーク)の変化に注目する、積分的な思考を抽象化すれば、定量的な評価も可能なはずだ。特に、デジタル分解能(ミリ秒以下)で変化する、比較的独立性の高いエッジにおけるデータの「分布」に注目したい。例えば、心電図に同期した、ミリ秒以下の心血管データについて、エッジ(変数)間での位相を含む相関には、人間が経験したことのない、疾患に関連するサインが含まれているかもしれない。そのように、あてのない探索は、科学者や医師では難しく、AIの仕事になるだろう。統計的な意味での相関は、2変数の同時分布を意味することが通常だけれども、デジタル時間分解能の範囲で、位相をずらした相関は、量子力学では(人間が理解し難い)深遠な意味を持つ場合が多い。

ニュートン力学は、典型的な微分的思考であって、変化の原因を解明して、結果を数式(微分方程式の解)で予測する。同じ時代の、近代合理主義哲学デカルトが、デカルト座標を発明した思考方法と相性が良い。しかし、レンズ磨きで幾何光学の天才スピノザは、自分自身は理解していないようだけれども、神が全ての原因であるという「合理的」思考によって、実際は積分的思考も探求していた。微積分学を数学的に整備したライプニッツは、万能計算機を発明した近代合理主義のスーパースターだ。ニュートンやデカルトの微分的思考の合理主義には満足できず、スピノザの深遠な(神すなわち自然が中心であって、人間は周辺的な事象にすぎない)積分的思考の合理主義を理解した、最初の人類だと思う。残念ながら、積分的思考の恩恵を得るのは、AIの機械学習であって、人間は、合理的とは限らない社会的行動において、試行錯誤する役割のようだ。

本稿では、学習を試行錯誤のプロセスとして記載した。近未来の機械学習による学習では、デジタル分解能のデータにおける「分布」の発見が、学習の重要課題となることを示唆するのが限界だった。統計的な意味での「分布」と、量子力学的な「分布」では、位相の取り扱いが決定的に異なる。経済学的な「分布」は、「distribution of wealth」富の分配として有名だけれども、トマ・ピケティの時代になっても、「分布」と「位相」の議論は皆無だ。次回は、「機械学習の学習」のまとめとして、「機械学習との学習」を、デジタル分解能における健康データや経済データの「分布」と「位相」について考えてみたい。

※参考1:「ニュース屋台村」過去の関連記事は以下の通り

『住まいのデータを回す』第5回「住まいの多様体(その5)」(2017年10月11日付)

https://www.newsyataimura.com/yamaguchi-94/#more-6902

『データを耕す』番外編2「日本科学未来館に行ってみた」(2017年3月30日付)

https://www.newsyataimura.com/yamaguchi-95/

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