山本謙三(やまもと・けんぞう)
オフィス金融経済イニシアティブ代表。前NTTデータ経営研究所取締役会長、元日本銀行理事。日本銀行では、金融政策、金融市場などを担当したのち、2008年から4年間、金融システム、決済の担当理事として、リーマン・ショック、欧州債務危機、東日本大震災への対応に当たる。
デジタル技術の浸透は、価格の設定方法(プライシング)も変える。
企業や金融機関は、需要、供給に関する情報を、時々刻々と手に入れられるようになった。料金改定に要する時間も、劇的に減った。
だが、それだけではない。異業種が、大胆なプライシング戦略をもって、金融業に参入してくる。金融機関は、この環境変化に対抗しなければならない。
5.プライシングが変わる
(1)クロスサブシダイゼーション
最も顕著な変化は、「クロスサブシダイゼーション(cross-subsidization)」を背景とする異業種の低価格戦略だ。
クロスサブシダイゼーションとは、ある部門から他部門への利益移転をいう。新規ビジネスに参入する際に、しばしば用いられる手法である。他部門で得た利益をテコに新規サービスの料金を低く設定し、市場シェアを一挙に獲得する目論見(もくろみ)だ(参考1参照)。
とくに決済関連サービスの分野での活用が目立つ。決済分野はネットワーク効果が働きやすく、顧客が多ければ多いほど効率性が高まるからだ。初期段階でのシェア獲得が、市場での地位確立に直結する。
(参考1)異業種によるクロスサブシダイゼーションの構造
(出典)筆者が作成
その典型が、政府のキャッシュレス振興策を契機とする「100億円還元」や「代金の2割還元」のキャンペーンだ。加盟店手数料を一定期間無料とするキャンペーンも、その一つである。
同様の事例は、決済関連以外の分野にも見られる。流通系の銀行子会社の一部は、住宅ローンの契約者に、グループ内スーパーマーケットでの買い物代金の最大5%を割引くキャンペーンを行っている。
いずれも、新規参入者が、本業利益を付け替えてシェア確保を目指す動きである。キャンペーンによる利益の持ち出しを勘案すれば、金融部門だけでは大幅な赤字だろう。
それゆえに、政府のキャッシュレス振興策が始まるやいなや、市場では体力勝負の競争が始まった。この競争は、別に本業をもたない専門業者などには、厳しいものだった。実際、複数のキャッシュレス手段提供者は、他業者の傘下に入ることとなった。
利用者にとっては、一見、「お得感」満載の振興策だが、社会的厚生の観点からみて望ましい結果を得られたかどうかは、もう少し様子見をみる必要がある。
では、シェア競争に勝ち残った業者は、今後どのように採算を回復していくか。本業に頼ってばかりはいられないことは明らかだ。いつまでも本業利益を付け替えていては、本業分野で他の事業者に負けるおそれがでてくるからだ。
一つの可能性は、競合相手が減ったところで、加盟店手数料を大幅に引き上げることである。もし、加盟店が手数料を商品価格に転嫁するようであれば、利用者にとっては最終的に負担が増す理屈になる。
ただし、加盟店が契約を打ち切ったり、商品価格への転嫁の結果利用者が減ったりする可能性が残る。勝ち残った業者も、必ずしも安泰ではない。
もう一つの可能性は、キャッシュレス手段を通じて得たデータが、期待どおりに高い価値をもつことだ。そうであれば、(利用者の同意のもと)本業にデータを引き渡し、本業がマーケティングなどに活用することができる。あるいは、データを匿名化し、他に転売することもできる。
この場合、利用者にとっては、「お得感」と引き換えに、貴重な個人データを先方に売り渡していることになる。
問題は、既存の銀行だ。銀行も、デビットカードや為替決済というキャッシュレス手段の提供者だ。しかし、クロスサブシダイゼーションをテコとする異業種の金融業参入に対抗するのは、難しい。異次元緩和の長期化もあり、銀行の本業ではほとんど収益があがらない。他業に参入し、収益を稼ぎ出すことも、現行の業務範囲規制のもとでは原則不可能だ。
銀行のキャッシュレス分野への出遅れは、デビットカードに不熱心であったために、みずから招いた事態である。しかし、巻き返しを図ろうとしても、異業種と異なる競争条件のもとでは、打開策を見つけるのが難しい状況にある。
(2)サブスクリプション、ダイナミックプライシング
「サブスクリプション」や「ダイナミックプライシング」などの価格設定も、デジタル化の進展で柔軟に活用できるようになった。
サブスクリプションとは、料金定額制のもとで、一定ないし無制限のサービス利用を認める手法をいう。典型的には、プラットフォーマーが提供する「映画、ドラマ見放題サービス(定額)」がある。
ダイナミックプライシングとは、需要の変動に応じて、サービス料金を柔軟に変更する手法だ。最近は、ホテルなどでも、繁閑に応じて日々宿泊料金を上下させる例が見られる。
(参考2)サブスクリプション、ダイナミックプライシングの実例
(出典)筆者が作成
金融分野でも、多様なプライシングを試す余地は大きい。たとえば、海外における預金の口座維持手数料は、ユニークなサブスクリプション例とみなすことができる。
米銀の口座維持手数料は、一定額以上の預金があれば手数料を免除、それ未満であれば手数料を課す仕組みが一般的だ。以前は、一定額未満の口座は、毎月使用できる小切手枚数に上限が設けられていた。ペナルティー的な性格とはいえ、手数料さえ払えば、一定回数まで自由に小切手を切ることのできるサブスクリプション型モデルとみることができる。
しかし、最近は、一定額未満の口座であっても、月に一定回数以上のデビットカード利用があれば、手数料を免除する例がみられるようになった。デビットカードの利用が多ければ、銀行は加盟店からより多くの手数料を得られるとの理屈からだろう。
ダイナミックプライシングも、検討の余地がある手法だ。
金融業は、システム関連の固定費用が大きい。とくに送金やATMは、利用頻度の季節性が大きいビジネスだ。単月でみても、月末・月初や給与支払い日などの利用が、極端に膨らむ。バックオフィスのシステム容量は、利用件数の最大値を前提に設計しなければならない。繁閑の大きさは、コストの増大に直結する。
もしダイナミックプライシングの手法を用いて、利用件数を均(なら)すことができれば、システム費用を圧縮できる理屈になる。たとえば、利用件数の多い日の料金を高めに設定し、利用客の分散を図ることができれば、固定費を削減できるはずだ。
デジタル技術の浸透は、多様なプライシングの手法を生み出している。金融業も、その可能性を探るべき時期に来ている。
(※以下、次回その6に続く)
※『山本謙三の金融経済イニシアティブ』過去の関連記事は以下の通り
第25回 デジタルが金融を変える 考慮すべき6つの要素(全6回)―その4・プレーヤーが変わる(2020年6月3日)
デジタルが金融を変える 考慮すべき6つの要素(全6回)―その4・プレーヤーが変わる 『山本謙三の金融経済イニシアティブ』第25回
第24回 デジタルが金融を変える 考慮すべき6つの要素(全6回)―その3・金融サービスが変わる(2020年5月27日)
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第23回 デジタルが金融を変える 考慮すべき6つの要素(全6回)―その2・顧客接点が変わる(2020年5月20日)
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第22回 デジタルが金融を変える 考慮すべき6つの要素(全6回)―その1・生産プロセスが変わる(2020年5月13日)
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