п»ї 名目賃金がほとんど上がらない謎 「賃金と物価の好循環」ははるかに遠く 『山本謙三の金融経済イニシアティブ』第71回 | ニュース屋台村

名目賃金がほとんど上がらない謎
「賃金と物価の好循環」ははるかに遠く
『山本謙三の金融経済イニシアティブ』第71回

11月 15日 2023年 経済

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山本謙三(やまもと・けんぞう)

oオフィス金融経済イニシアティブ代表。前NTTデータ経営研究所取締役会長、元日本銀行理事。日本銀行では、金融政策、金融市場などを担当したのち、2008年から4年間、金融システム、決済の担当理事として、リーマン・ショック、欧州債務危機、東日本大震災への対応に当たる。

日本銀行は、10月末の金融政策決定会合で長短金利操作(YCC)を再修正し、長期金利が上限めど1%をある程度超えることがあっても、容認する場合があるとの姿勢を示した。

一方、マイナス金利をはじめとする大規模な金融緩和の大枠は維持した。日銀の公表文では、「『物価安定の目標』の持続的・安定的な実現という観点から、賃金と物価の好循環など経済・物価情勢の変化を丹念に確認していく」としている。

では、足元の「賃金と物価の関係」はどうか。関係を端的に表す実質賃金指数は、18か月連続で前年比マイナスに沈んでいる。直近9月(速報)の前年同月比もマイナス2.4%と、到底「好循環」とは言えない状況にある。

春闘で大幅な賃上げが実現した際には、夏場にも「好循環」が確認されるとの観測もあったが、的外れだった。一体、何が起きているのだろうか。

◆ほとんど上がっていない名目賃金

参考1が、毎月勤労統計調査(以下、「毎勤統計」)の名目賃金(月間現金給与総額)と実質賃金指数の前年比推移である。

(参考1)名目賃金および実質賃金指数前年比

(注)5人以上の事業所。直近は23年9月速報

(出所)「毎月勤労統計調査」(厚生労働省)を基に筆者作成

グラフから分かるように、実質賃金の大幅マイナスは物価の高止まりだけが理由ではない。名目賃金の前年同月比(9月速報、以下同じ)もわずか+1.2%にとどまる。昨年の同じ時期に比べても、伸びは低い。

今年の春闘の妥結水準や最低賃金の大幅引き上げを思い起こせば、意外な結果である。

◆コスト上昇に苦しむ中堅・中小企業が正規雇用を抑制

毎勤統計は、常用労働者を「一般労働者」と「パートタイム労働者」に区分する。「一般労働者」とは、「パートタイム労働者」以外を言う。統計によれば、「パートタイム労働者」の現金給与総額は+1.9%の伸びを示す一方、「一般労働者」は+1.6%にとどまった。

さらに全体は、前述のとおり+1.2%と、パート、一般労働者それぞれの伸び率よりも低い。これは、相対的に低賃金の「パート」の構成比が高まったために、全体の加重平均値が抑え込まれ、伸びが押し下げられたためである。

参考2が、「パートタイム労働者比率」の推移だ。2020年の上期に新型コロナの感染拡大を受けて大幅に低下した後、コロナの収束とともに低下分を完全に取り戻し、今はさらに上昇を続けている。

(参考2)「パートタイム労働者比率」の推移

(注)5人以上の事業所。直近は23年9月速報

(出所)「毎月勤労統計調査」(厚生労働省)を基に筆者作成

俯瞰(ふかん)すれば、原材料費の高騰と賃金コストの上昇圧力で窮地に追い込まれた中堅・中小企業が、賃上げを抑えつつ、パートへのシフトを加速させたということである。

賃金が上昇を続けるには、企業の付加価値(注)の向上が不可欠の条件となる。名目賃金の伸び悩みと「パートタイム労働者比率」の上昇は、その条件が整っていないことの証左である。

(注)付加価値とは、売上高から、原材料費や減価償却費を差し引いたもの。ここから従業員への給与等が支払われ、残りが企業の利益となる。

「好循環」が見極められるのは早くても来年秋口か

参考1が示すように、名目賃金の伸びは夏場に腰折れした。鍵は、中堅・中小企業の付加価値の動向と雇用姿勢にある。春闘の結果や最低賃金の動向だけからでは、「賃金と物価の好循環」を見極めるのは難しい。

今年の経験を踏まえれば、中堅・中小企業を含む全体像を把握できるのは秋口以降になるだろう。「賃金と物価の好循環」が実現するとしても、見極めが可能となるのは早くても1年後となる。

◆「好循環を見極める」政策姿勢は適切か

だが、そもそも日銀の「好循環を見極める」姿勢は、適切なのだろうか。

中央銀行は物価の番人であって、賃金の番人ではない。賃金は、基本的に企業の付加価値によって決まる。中央銀行は直接コントロールできない。

金融政策は、本来「短期の経済変動を均(なら)す」ための手段だ。物価が上がれば金融を引き締め、物価が下がれば金融を緩和し、そうしたプロセスを経て物価を安定させる――これが金融政策の役割である。

昨年4月から1年半にわたり、物価(生鮮食品を除く消費者物価総合、前年同月比)は2%を超えてきた。にもかかわらず、日銀が金融政策の正常化に踏み切らないのは、「物価目標2%の安定的な達成」を絶対視し、半永久的な物価2%超えを自らに課してきたからだ。

しかし、物価目標の「2%」に確かな根拠があるわけではない。米国も「平均物価目標2%」を掲げ、その実現にこだわったばかりに、物価の高騰と金融システムの不安を招いてきた。FRB(連邦準備制度理事会)は、今もその後遺症に難渋している。

日銀が言う「物価目標2%の安定的な達成」は、米国の「平均物価目標2%」以上にハードルが高い。

異次元緩和開始後の実質賃金指数の前年同月比(単純平均)は、マイナス0.8%だった。すなわち、10年半もの長期にわたり、①物価目標2%を絶対視した金融政策と②マイナスの実質賃金――が併存してきた。これは、日本経済の真の課題が「金融緩和の不足」ではなく、「企業の付加価値の伸び悩み」にあったことを示している。

中央銀行にとって、企業の付加価値や賃金は与件として扱うべきものだ。現状の付加価値の伸びを与件とすれば、日銀がとるべきは、「賃金と物価の好循環」の見極めでなく、「物価目標2%を絶対視する姿勢」を見直すことの方ではないか。

日銀は「賃金が上昇しやすい環境を整えていく方針」を強調している。耳に心地よい表現だが、「賃金と物価の好循環」の見極めに時間をかけるほど、過去10年と同様に異次元緩和をずるずると続けていくことになりかねない。

その間、異次元緩和の副作用は着実に累積していく。市場経済の基盤である市場機能の低下を軽視してはならない。

 

 

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